オットー・クレンペラーの最後のコンサートは、1971年9月26日、ロイヤル・フェスティバル・ホールで開催された。87歳の御大の棒は、決して愚鈍なものではなく、それこそ安定した、重厚な様相を示すものだ。
ちなみに、このシーズンに指揮者は、マーラーの交響曲第8番、メンデルスゾーンの「最初のワルプルギスの夜」の最初で最後の演奏を計画していたという。そしてまた、EMIは、クレンペラーの指揮でヴェルディのレクイエムやウェーバーの歌劇「オイリアンテ」、シベリウスの交響曲第4番、オッフェンバックの喜歌劇「地獄のオルフェ」の録音を希望していたそうだ。残念ながら、それらはいずれも叶うことはなかった。
あれこれもう悪いというのに、今度は目が悪くなってきて、譜読みも読書もなにもかも難しくなってしまった! いろいろな眼鏡がもう4つのあるのに、またひとつ新しいのが増えてしまいました。(・・・)すぐ疲れてしまうのも、目を使うときの大きな負担になっています。
もうパパは演奏会はやめたほうがいいと思うけれど、レコードをつくる仕事のほうは、興味が湧く曲であればつづけていいでしょう。その方向でパパを説得しはじめています。次の演奏会はやったほうがいい。そうしたら、パパにどうしてもやる必要はないことがわかってもらえるだろうし、今後どうすべきかも(望むらくは)わかってもらえるでしょう。曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番とブラームスの3番なので難しくはない。でもそのあとで、生活を変えることを話し合わなくてはいけないし、それを実行に移す必要があります。それも公式にね。パパの興味をそそる要求度の高いものはもうできないので(これは本人もわかっています)、残るのはお決まりのものだけ。それにパパはうんざりしているので、やめてもどうっていうことはないんです。ただ「顔見せ」のためにやっているだけなんて! もうそんなことをしなくてもいいはずなのに。パパは本当にもうそういうことを超えた存在でしょ。もちろん、こういう決断にはつらいものがあるけれど、けっきょくは解放されるものがあると信じています。どう思う?
(1971年9月9日付、ロッテ・クレンペラーからパウル・デッサウへの手紙)
~E・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P225
娘が何と思おうと、少なくともこの時点で本人の舞台に立とうとする意欲は強く、音楽を続けることの動機付けも十分だったのだろうと想像する。重厚な表現の中に垣間見える、血肉の通った生命力満ちるパフォーマンスが繰り広げられる。
おそらくもはやほとんど棒は動いていないだろう。もちろん老巨匠は椅子に腰かけたままだ。それでも機敏にピアノに反応し、オーケストラもここぞとばかりに自発的にドライヴする、水も滴るベートーヴェンの協奏曲ト長調。流れは実にスムーズ。
素晴らしいのはブラームス。第1楽章アレグロ・コン・ブリオ冒頭の、怪獣のような激烈な咆哮は、まだまだ自分は切れ切っていないぞという意思表明であり、それぞクレンペラーの本懐。それにしても音楽はゆっくりと、しかし弛緩なく堂々と進む。第2楽章アンダンテの望郷、そして第3楽章ポコ・アレグレットの憧憬。白眉は終楽章アレグロ―ウン・ポコ・ソステヌートの怒涛のうねりと前進性!!徐に消えゆくコーダの精神美!!!
[…] 最晩年、最後のコンサート直前に録音されたセレナード変ホ長調のあまりの美しさ。何より第3楽章アダージョの脱力の音色は老練の棒の真骨頂だろう。あるいは、終楽章アレグロの愉悦 […]
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