ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団第645回定期演奏会

nott_tokyo_20161015663イザベル・ファウストは奇蹟だ。ハッとさせられる瞬間多々。
3年ぶりに触れた実演に感激した。正確な音程で、しかも遊びがあり、まさに芸術的。素晴らしかった。何より音楽しか感じさせない絶対。そこにはベートーヴェンの「意志」はない。

少し前に、さだまさしがカズレーダーによる「案山子」の歌詞分析に感嘆したという記事を読んだ。なるほどと、納得した。そのことを思い出した。

すると、さだが「ほー、そうなんや」とコメント。さだ本人のまさかの反応にカズレーザーが「違うんですか!?」と動揺して尋ねる。さだは「書いた人間は無意識。だから、言われてみればそうだなと」「『これ書いたら、こう思うかな』という計算はしない。頭の中で勝手に作りあげていく」と明かした。

さだの言葉に音楽家の真実をみるようだった。すべては後世の人間の解釈であり、その解釈は後付け。こと音楽家に限って、当の本人には意図などないのである。あらゆる作品が天の按配。だから普遍的なのだ。本題に戻ろう。

ファウストのベートーヴェンは鮮烈だった。そして、何よりセンス満点。
第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ最初のティンパニの4つの打音は楽聖の悟りの証であるが、それは何と最後の美しいカデンツァと連動していた。ベートーヴェンが後にピアノ協奏曲にアレンジした際に創作したカデンツァをヴォルフガング・シュナイダーハンがヴァイオリン用にアレンジしたそれはティンパニを伴うもの。その両者の応答は、ある意味今宵の演奏の白眉であり、柔かなその響きに僕は恍惚とした。また、第2楽章ラルゲットの緻密な静けさに感動。例えば、中間でピツィカートをバックに奏でられるヴァイオリン独奏は筆舌に尽くし難い官能。そして、第3楽章ロンド冒頭では、おそらく初めて耳にしたカデンツァ風のソロが挿入されていたのである。何という繊細さ、あるいは躍動感。喜びに満ちたファウストのソロは終始弾け、ノット率いる東響の伴奏はこれでもかと共にドライヴした。
なるほど、楽聖の幸福は恋愛によるものではなかった。すべてとひとつになった快楽を表現したものだったのだと僕には思われた。
ちなみに、アンコールのギユマンも素敵だった。

東京交響楽団第645回定期演奏会
2016年10月15日(土)18時開演
サントリーホール
イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)
グレブ・ニキティン(コンサートマスター)
ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団
・ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61
~アンコール
・ギユマン:無伴奏ヴァイオリンのためのアミューズ作品18から
休憩
・ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調作品93

後半のショスタコーヴィチの洗練された音はノットならでは。どちらかというと土俗的で粗削りなショスタコーヴィチにあって、その都会的センスは桁外れ。とにかく独奏楽器が活躍する音楽だけにホルンの不安定さは気になったが、それでも木管楽器の飛び抜けた巧さに感動した。とにかくそこにあったのは絶対音楽。特に「証言」以来様々取りざたされる音楽家だが、それですら後付けのもの。実は本人にすら音楽そのものの意味はわかっていなかったのではと思われるくらい。ただただ素直に耳を傾けよ。そこに答があるのである。

僕は高橋悠治が師柴田南雄に贈った言葉を思った。

だが、柴田自身も桐朋だけではなく、
いくつかの大学の教職を定年前にやめているし、
批評家や解説者としての定職からも退いている。
ある組織、機構、水準をつくりあげるのに手を貸し、
それらが機能しはじめると、潮時を見て自由の身にかえる。
何かをつくりだすには、知識や経験だけでなく、
イデーを必要とするが、それだけではまだ知恵とは言えない。
自分がつくったもの、作品でも、組織でも、
あるいは業績、地位といったものであれ、
作為の結果にとらわれないことは徳と呼ばれるだろうが、
じっさいにそこから離れることはやさしくない。
自分の行為の結果から、人に気づかれず、
あるいは人をきずつけずに、じょうずに身を引くことができれば、
それは知恵というものだ。
高橋悠治著「音の静寂 静寂の音」(平凡社)P113

音に特別な意味はない。
そのことに気づくことが大切だ。

 

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2 COMMENTS

雅之

>すべては後世の人間の解釈であり、その解釈は後付け。こと音楽家に限って、当の本人には意図などないのである。あらゆる作品が天の按配。だから普遍的なのだ。

おっしゃる論法の延長線を考察すると、後世の人間の後付け解釈さえもが天の按配なのだと思います。そして「音楽しか感じさせない絶対」も、解釈のひとつではないでしょうか?

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岡本 浩和

>雅之様

そうなんです。その通りです。
毎日、なんやかんや書きながら、ここのところつくづく矛盾を感じております。

芸術作品に対しての批評的なものはもちろんのこと、単なる感想も含め言葉にすること自体が実にナンセンスだと最近は思うのです。第三者が言葉にしようと思っても本来は言葉にできないもので、そうした瞬間にすべては主観化し、おっしゃるように「解釈」に陥ってしまいます。

だから、いつの頃からか音楽や演奏そのものに対する是非は書かないように気をつけているつもりですが、つい・・・。演奏の瑕も含めすべてが「音楽」ですからね。
ご指摘ありがとうございます。

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