カラヤン指揮ベルリン・フィル シベリウス 第6番&第7番(1967録音)を聴いて思ふ

1,250年以上前に、聖武天皇の意志で、この地に離宮が営まれ始めた記録が残ることによって、第一に、そんな早くからこの地が「紫香楽(信楽)」という地名であったこと、そして、その地名が今に至るまで変わらずに受け継がれてきたことがわかります。自分の住む所の地名がこんなに古くさかのぼることがわかるケースは、まれではありませんが、たくさんはないのです。
[天平の都 紫香楽]刊行委員会編集/信楽町発行「天平の都 紫香楽-その実像を求めて」P169

高原では、お盆が過ぎると途端に秋の虫の声が聞こえる。
それに残暑とはいえ、夜半はめっきり涼しい。
自然の、人智の及ばない、まるで図ったようなサイクルはとても偉大だ。

久しぶりにカラヤンのシベリウスを聴いた。
初夏の、白夜の北欧の大自然の運行と見事にマッチするジャン・シベリウスの音楽を、センシティヴに、音を極限まで錬磨するカラヤンのマジック。後期の交響曲群がこれほどまでに「完璧に」表現された例が他にあるのだろうか。

一つ一つの音符が丁寧に、フレーズに心がこもり、音楽は冒頭から底知れぬ活気を持つ。大宇宙の、まるでブラックホールのような漆黒の求心力と、巨大な、目に見えない力による遠心力の拮抗する交響曲第6番。それは、それは、あまりに美しい。

シベリウス:
・交響曲第6番ニ短調作品104
・交響曲第7番ハ長調作品105
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1967録音)

そして、シベリウスがそれまでの人生の、ある意味総決算として苦悩の上に創り上げた単一楽章の交響曲の凝縮された厳しさと繊細さ。この2つの交響曲に限ってはカラヤン指揮ベルリン・フィルのものが随一であると、最近の僕は思う。ほとんど人工的とさえ思える音楽作りが、かえって人間の深層に響くのだ。

首都・紫香楽の具体的な姿を私たちに伝えてくれるものが、史跡紫香楽宮跡の古代寺院遺構であり、宮町遺跡です。そればかりでなく、いくつかの盆地を貫いて流れる川や、盆地をとりまく山々、つまり信楽の自然も、紫香楽の都を偲ぶ大切な遺跡なのです。およそ1,250年前に、聖武天皇を頂点とするさまざまな階層の、数千、いや万を超える人々が、離宮や京の建設や運営に関わって、懸命に生活していたのです。その人々の「生きた証」が遺跡です。人間の社会においてもっとも大事なことは、他者が懸命に生きる姿を尊重することだと思います。他者に思いをはせることが「共存」の第一歩です。それは同時代の人々に対してのみであってはなりません。過去の人々の生きざまに対する敬意も、同じ程度に払われるのでなくては、本当のものとは言えないでしょう。
~同上書P170

他者に思いをはせることが「共存」の第一歩だとは納得だ。
そのことはカラヤンの創造する音楽にも通ずる。
時間と空間を超え、カラヤンのシベリウスは永遠だ。

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