ホグウッド指揮エンシェント室内管 モーツァルトK.183&K.201(1979録音)を聴いて思ふ

立ち位置が変われば、世界の見え方は180度変わる。表と裏の交替。最たる例はモーツァルトの歌劇「魔笛」K.620。稀代の傑作である。とはいえ、モーツァルトの天才は少年時代から何ら変わるところがない。その名の通り、彼は神より選ばれし者。

たとえばモーツァルトは、天啓が得られる瞬間を次のように述べている。

「私がいわば完全に自分だけになり、まったく一人で、気分がよいとき—たとえば馬車での旅行中とか、良い食事の後の散歩、あるいは夜中に一人で眠れないとき、そういうときに思いつきがもっともたくさん、滑らかに流れ出る。『どこから、どのように』表れてくるのかはわからない。意識してできるわけでもない」
(ナンシー・C・アンドレアセン「天才の脳科学」青土社)
岩波明著「天才と発達障害」(文藝春秋)P109

天啓とは、その名の通り人為でなく、自らコントロールできるものではないということだ。そして、モーツァルトは、曲が生まれる瞬間については次のように言っているのである。

すべてこれが、邪魔の入らぬかぎり、私の魂を燃えさせる。主題はひとりでに膨らみ、順序だてられて構想ができ、そして長い曲であっても、私の頭の中でほとんど全部完成する。私は瞬時に全体を見渡せることができる。
(H・ガードナー「芸術、精神そして頭脳」黎明書房)
~同上書P110

まったく人間技ではない。

モーツァルト:
・交響曲第25番ト短調K.183(K.173dB)(1773)
・交響曲第29番イ長調K.201(K.186a)(1774)
ヤープ・シュレーダー(コンサートマスター)
クリストファー・ホグウッド指揮(コンティヌオ)エンシェント室内管弦楽団(1979.3-10録音)

かれこれ36年前、この音盤を初めて聴いたとき、僕はその鮮烈な響きにどうにも感動した。
そもそも「18世紀の、モーツァルトの生きていた時代に行なわれていた演奏の形に出来るだけ近い形で再現しよう、という企画」そのものが、まさにそれまでのモーツァルト解釈を覆す、コペルニクス的転回であったことが、10代の僕の心にも大きく響いた。
堂々たる、重厚な音響のモーツァルトとは異なる、透明感と軽快さ、同時に先鋭的な音。

特に、映画「アマデウス」でも使用されたト短調交響曲(第1楽章アレグロ・コン・ブリオ!)の切迫した音楽に僕は痺れた。そしてまた、優雅で高貴な響きを持つイ長調交響曲に感応した。何より第2楽章アンダンテの懐かしさ。

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