台風15号の影響で東海道新幹線は間引き運転、もしくは運行取り止め。東京まで帰ることは断念し、広島から名古屋までのチケットをとって予定の車両に飛び乗ったものの、結局新大阪止まり。JRの係員からは新大阪からはこだまに乗ってくれと案内があり、新大阪のホームで小1時間待機、そして、ようやく予定のこだまに乗り込むことができたと思ったら車内は立錐の余地なく激混み。よって1時間強デッキで立って過ごした。
その間、手持無沙汰で僕は何をしていたか。
カール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団による至高の名盤バッハの「ミサ曲ロ短調」を心静かに聴いていた。大勢の老若男女が集い、行き交うデッキの上に立ち呆けて、iPodの中、僕は至純の境地にあったのである。聖と俗の混淆。世界の不思議を感じた。これほどの贅沢があろうか。
世俗音楽にある崇高な祈り、あるいは、神に捧げし教会音楽の人間味。
バッハの奇蹟とは、あらゆる事象、すべてを包括する不思議にあろう。
リヒターのバッハの文字通り「全身全霊」に僕は感動を覚える。
リヒターの時代が、刻々と去ってゆく。かつてリヒターのバッハに驚き、感激し、燃焼したファンは私ばかりではないはずだが、時の流れの速さは、そうした生々しい体験を、なつかしい思い出とするところまで来てしまった。今では、古楽器をとる演奏家たちを中心に、ポスト・リヒターの流れも、ますます活発である。そんな今、リヒターの遺したバッハ演奏が、どこまでアクチュアリティをもちうるのか。
(磯山雅)
~F60A 20036/7ライナーノーツ
かれこれ30年も前、磯山さんはそのように書いておられたが、しかし、今になってあらためて振り返ってみても、リヒターのバッハは一向に古くならない。それどころか2019年の今も彼のバッハは不滅であり、また近寄り難く、一層崇高だ。
例えば、グローリア第5曲アルトのアリア「われら汝を頌めまつる」の人間臭い、温かみのある歌。続く第6曲「われら汝に感謝を捧げまつる」の堂々たる4声合唱の喜び。そして、ソプラノとテノールの二重唱である第7曲「主なる神」の妖艶さ(?)。
どの瞬間もリヒターの演奏は機知に富むが、最高のシーンは第2部クレド第16曲合唱「十字架につけられ」。ラメント・バス(嘆きの低音)に基づくシャコンヌの迫真と光満ちる静けさに圧倒される。何という幽玄。
・・・私は、殿下の図書室で私にきわめて貴重なものを拝見するために、ヴィーンにおりました。主たる狙いはよりよい芸術統合との素早い遭遇でありますが、それを実際的狙いが除外してしまうこともあるのです。昔の人は両方に、しかしたいていは堅実な芸術価値に、拘っています(才能はそのなかでドイツ人ヘンデルとJ.S.バッハだけが持っていました)・・・
(1819年7月29日付ルドルフ大公宛)
~大崎滋生著「ベートーヴェン 完全詳細年譜」(春秋社)P360
ベートーヴェンも賛美するバッハの才能の極致。それを見事に再現するカール・リヒターの技量。50年近い時を経ても永遠だ。