
信仰は恩寵であり、音楽もまた恩寵である。つまりふたつは、生ける神がその被造物、人間に与えられた賜物なのである。
特に音楽が神に捧げられた場合、つまり教会音楽である場合、そして音楽が、人間が神のために行うあらゆる務めにおいて神に仕える場合、こうした関係が生じる。
「信仰と音楽—ブルックナーのミサ曲における『クレド』楽章」
~レオポルト・ノヴァーク著/樋口隆一訳「ブルックナー研究」(音楽之友社)P87
レオポルト・ノヴァークの言葉に膝を打つ。
1866年のミサ曲ホ短調。独唱なしの混声合唱に、伴奏は管楽器のみという渋さ。そのせいか、音楽は終始重厚で透明感を保持し、また美しい。静謐なる「キリエ」の神々しさよ。
ノヴァークの「恩寵」という言葉通り、ここには言語を超えた祈りの念と魂の震撼がある。少なくとも作曲時のアントン・ブルックナーの魂は天上世界にあっただろうと思える聖なる音楽。野人ブルックナーの天才が刻印される傑作の一つ。
興味深いのは、オイゲン・ヨッフムの解釈。
あまりに人間的で、情感豊かな旋律が躍るヨッフムの演奏は、決して抹香臭くならず、ひとつの機会音楽としても機能するもので、時と場所を選ばず耳を傾けることができる秀逸なもの。
ブルックナーの音楽には希望がある。なぜなら彼は、神を絶対的に信仰していたから。それは、教会音楽にせよ交響曲にせよ、何ら変わることがない。
神の全能を内容とする言葉の作曲においても、ブルックナーの信仰は同様にきわめて明瞭に啓示される。彼はこの「全能の存在」を堅く信じていたのである。
~同上書P95
敬虔な音。
奇を衒わず、ひたすらブルックナーの音楽に感応し、ある意味無骨に音化することだけを考えるオイゲン・ヨッフムの素朴な魔法。その音楽は時間と空間を超え、輝き続ける。
ブルックナーの宗教音楽を侮るなかれ。