
1778年3月11日、宿泊先の宮中顧問官ゼーラリウスの娘ピエロンのために「クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタハ長調」(K296)を作曲。3月14日、母と2人でマンハイムを出発、メッツ、クレルモンを経て、23日にパリに到着。
旅の日のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。
モーツァルトが母親とともに旅装をといたブール・ラベ街のメイエの家はこの界隈にあった。父レーオポルトの知りあいであったアウクスブルクの商人の代理人の住居であった。1778年3月23日午後4時とモーツァルトは書いている。12年ぶりのパリであった。
(田之倉稔「パリ幻視行」)
~「モーツァルト 18世紀への旅 第5集 『ロマン』の先駆け」(白水社)P76
日記や書簡をたくさん残したモーツァルトだからこそ後世の僕たちは、素晴らしいかな、彼の足跡を疑似体験できるのである。
モーツァルト母子がサン・ローラン定期市をのぞいたかどうかは知らないが、もし行くつもりがあったとしたら、彼らの止宿先からは歩いて20分ほどで行かれたはずである。先ずサン・ドニ街に出て東へ進み、門をくぐって先へ行く。しばらくすると《サン・ドニの木戸》がある。
~同上書P79
希望に胸溢れ母子はパリを訪れたはずだが、その想いは見事に崩される。世知辛いパリの情景、そして人間模様がはっきり見える。
モーツァルトは到着早々、ド・シャボ公爵夫人に会いに行って誠意のない扱いを受ける。暖房のない部屋で1時間も待たされた上に、おんぼろピアノを弾かされる。絵を描いていて誰も聞いていないのでいい加減に弾いたら賞められる。こうしたフランス人の態度に出会って、一瞬のうちにモーツァルトの心の中にパリへの幻滅が生まれる。
~同上書P82
そんな幻滅を抱きながらも彼は作曲をした。
結論的には、モーツァルトは、パリでは1曲のオペラも書けず、上演もできなかったのである。
(海老沢敏「モーツァルト作品館[V]1777-1778」)
~同上書P144
ちなみに、初夏の頃から母マリーア・アンナは体調を崩し、結局この年7月3日に逝去する。青年ヴォルフガングの悲しみはいかばかりだったろう。
母親のパリ客死の前後に書かれた曲には、「クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタホ短調」(K304=K6/300c)と、それに「クラヴィーアのためのソナタイ短調」(K310=K6/300d)の2曲の短調作品がある。これらの曲が、母の死の前に書かれたものか、それとも後のものかは定かではない。しかし一般に母の死の予感ないし体験と関係づけられていることは事実である。
~同上書P146
ことモーツァルトにあっては個人的な体験が作品の趣に反映されることはないという主張もあるが、人間である以上そんなことはないはずだと僕は考える。
イングリット・ヘブラーとヘンリク・シェリングによる名盤。
踏み外しのない安定のヴォルフガング・アマデウス。その意味では永遠不滅の普遍性を獲得する。マンハイム=パリ旅行の最中完成されたとされる、いずれも2楽章制のK301~K304の4曲が素晴らしい。なるほどこれは陰陽二気から無極へと帰る音楽のはしりと言えまいか。ト長調301においてヘブラーのピアノが弾け、シェリングのヴァイオリンが歌う(両者は光と翳を交互に演じ、最終的に統べる)。あるいは、ハ長調K303の第2楽章テンポ・ディ・メヌエットに垣間見るふとした瞬間の哀感がいかにもモーツァルト!