この緻密な計算は、極めて西洋的な手法だ。
そして、この凝縮された形態は、極めて東洋的なセンスに溢れる。
私は、西洋的知性のおそろしいほどの分化発展を過小評価しようなどとは思っていない。西洋的知性に比較すれば、東洋的知性など子供みたいなものである(むろんこれは、いわゆる知能とは全く何の関係もないことだ)。もしわれわれが、現在知性に与えられているような高い地位に、別の、あるいは第三の心的機能をつかせることができるなら、西洋は東洋をはるかに越えるだろうという期待ももてるのである。したがってヨーロッパ人が自分自身を捨てて東洋のまねをして気どるなどということは、大変歎かわしいことなのである。ヨーロッパ人が自分自身でありつづけつつ、みずからの流儀と本質に従って、東洋が数千年の経過の中でその本質に従って生み出してきたものすべてをさらに発展させることができるならば、ヨーロッパ人は大変な可能性をもつことになるであろう。
~C.G.ユング・R.ヴィルヘルム/湯浅泰雄・定方昭夫訳「黄金の華の秘密」(人文書院)P37-38
カール・グスタフ・ユングの(東洋思想への心底)嫉妬というか、ここには間違いなく相応の戸惑いがあり、それを隠すべく書を著しているように見えてならない。しかし、この論は確かに言い得ている。例えば、音楽の世界においては、さしずめアントン・ヴェーベルンこそがその可能性の代表格だったのではないのだろうか。
冷たい知性と温かい理性が合一しての奥深い官能。
50年も前にブーレーズらが録音したヴェーベルンの作品を繰り返し耳にして思うのは、東と西を(無意識であろう)統合した調和の美が厳然と存在すること。
ローゼンによるピアノのための変奏曲の鋭利でありながら柔和な印象を与える音調は、それこそ表裏一体の証ではないのか。あるいは、ジュリアード弦楽四重奏団による四重奏曲に垣間見える明るい希望。簡潔にして複雑、暗澹たる趣にして明朗。相反する矛盾の中にある中和。ともかくヴェーベルンの音楽はどの瞬間も素晴らしいのだ。
おまけの、編曲者指揮によるシューベルトのドイツ舞曲がまた可憐で瑞々しく、弾けるようにほのぼの温かい。淡々として主張しない、何とも謙虚な姿勢がまた東洋的(?)で心地良い。
1945年9月15日、アントン・ヴェーベルン急逝。
死因はアメリカ兵の誤射によるものだという。嗚呼、無情なり。