魂は一般に、身体の自然に開いている箇所、とくに口や鼻腔から抜け出るものと考えられている。このため、セレベス島ではときとして、病人の鼻と臍と足に釣り針がつけられる。万一魂が抜け出そうとすれば、これで魂を引っ掛けて固定しようというわけである。
~J.G.フレイザー/吉川信訳「初版 金枝篇(上)」(ちくま学芸文庫)P180
上記の言葉を読んでもわかる通り、学者の机上の空論の限界のように見える。
ジェームズ・ジョージ・フレイザーの研究成果をして世間からは「肘掛椅子の人類学」と揶揄されながら、一方でロレンスや「地獄の黙示録」にインスピレーションをもたらした書物として「金枝篇」は実に先見の価値ある物語だ。
フレイザーの別の言葉を引く。
蛮人にとって、世界は概して、動物のように生きているものであり、樹木もその例外ではない。蛮人は、樹木もまた人間のように魂を持つものと考え、またそのようなものとして扱う。たとえば東アフリカのワニカ族(the Wanika)は、すべての木、とりわけすべてのココヤシの木は、霊を備えていると考える。「ココヤシの木を殺すことは母殺しと同じと考えられている。なぜならこの木は、母親が子どもにするように、生命を与え栄養分を与えるからである」。シャム(タイ)人の僧侶は、至る所に魂が存在しており、何であれ破壊することは魂を力ずくで奪うことに等しいと考えるため、木の枝を折ることもしない。「これは、無実の人の腕を折ろうと思わないのと同じである」。この僧侶たちはもちろん、仏教の僧侶である。だが仏教のアミニズムは哲学的な理論ではない。それは単に、歴史的な宗教制度に組み入れられた、平凡で野蛮な教義に過ぎない。
~同上書P97
フレイザーが未開民族をして蛮人と称している点に(今や)違和感を覚えるが、八百万の神を信じる日本人からしてみれば生きとし生けるものすべてに魂が宿るということは自明だ(しかし、動物の場合は霊性であり、植物の場合は精霊であるという意味で、正確にはその本質は異なるだろう)。
「金枝篇」は19世紀末に上梓された。現代とは幾分異なる状況もあろうが、ボヘミア近郊の某所について彼は次のように書いている。
「野人」に扮したひとりの男がいくつかの通りを追いかけ回され、最後に紐の張られた狭い路地に入り込む。彼はその紐で躓き地面に倒れ、追跡者たちに追いつかれ、捕らえられる。死刑執行人が駆け寄り、「野人」が腰の周りに携えていた血の詰まった嚢を、剣で突く。これで「野人」は死んだことになり、流れ出る血はあたりの地面を赤く染める。翌日、「野人」に似せて作られた藁人形が寝藁の上に置かれ、大勢の群衆に囲まれて池まで運ばれ、死刑執行人によって池に投げ込まれる。この儀式は「謝肉祭の埋葬」(”burying the Carnival”)と呼ばれている(これは、「謝肉祭に行われる埋葬」ではなく、「謝肉祭を埋葬すること」の意である。後には「謝肉祭を絞首刑に処する」という例も紹介されている)。
~同上書P338-339
古今東西地域の風習とは(時空を超え)興味深いものだが、古人の知恵というのは馬鹿にはできまい。本来「肉食を断つ」ことで懺悔し、心身を浄化するという意味合いであった「謝肉祭」そのものを放下するという西洋人の発想そのものが(ある種)人間の正当化の極致のようにも考えられる。人間の意識とはそんなものだ。
「謝肉祭」そのものを主題にした芸術作品は多い。音楽であれば、エクトル・ベルリオーズ、ロベルト・シューマン、あるいはカミーユ・サン=サーンスによるものが有名だ。
サン=サーンスの名作「動物の謝肉祭」をマルタ・アルゲリッチとその仲間たちが収録した名盤。録音から40年近くが経過するが、ぼんやりと過ごしたいとき(?)に打ってつけの1枚。そもそもこの音楽自体襟を正し、正座して聴くような代物ではない(と僕は思う)。しかし、さすがにアルゲリッチが絡んでいることだけはある。どの曲も真剣勝負で、ときに丁々発止のぶつかり合いが生まれているのだから堪らない(数多引用される第12曲「化石」!!)。オリジナルの「白鳥」以外は、ほとんどパロディもので、サン=サーンスは自身が亡くなるまで出版・再演を禁じたのだが、マイスキーとのその「白鳥」は絶品。
ほとんど洒落のように創造された作品だが、「謝肉祭」のパレードの様子、そして様々な動物たちが登場するシーンは圧巻。人間も動物も本性は一つだ。すべては「慈しみ」でつながっている。