ヴァイル指揮ターフェルムジーク ハイドン第50番ほか(1993.3&4録音)を聴いて思ふ

ヨーゼフ・ハイドンの交響曲には、モーツァルトと違う、あるいはベートーヴェンとも異なる「新しさ」がある。

喜多尾道冬さんは、「音楽による新しい時代の革命的な思想表現は、ソナタ形式という形を借りて、ハイドンにはじまり、モーツァルト、ベートーヴェンに受け継がれ、それはいわゆるウィーン古典主義音楽の基本理念となった」という。

またこの図式(ソナタ形式)は小説にも当てはまる。たとえばヒーロー(第1主題)とヒロイン(第2主題)が出会い、さまざまな葛藤のなかで愛し合ったり憎み合ったりしながら、たがいに結ばれるか、あるいは決裂するか、紆余曲折の展開を見せて、最後に大団円に達して終わる。小説の起承転結の過程が、音楽ではソナタ形式となる。
その萌芽は、ハイドンと同時代に活躍したゲーテの小説『若いヴェールターの悩み』に見られるが、この対立的な構図は19世紀に入ると、「女の一生」という形をとることが多くなる。つまり市民社会の発展のなかで女性解放が進み、これまでの貴族と市民の対立だけでなく、抑圧されていた女性が自己実現を求めるようになり、男女の対立が顕在化しはじめていたからである。

喜多尾道冬著「シューベルト」(朝日新聞社)P153

歴史とともに芸術が発展し、文化が醸成されるのである。そういう状況の中で、エステルハージ家に仕えていたハイドンは考えた。

ハイドンは、時代がそのようなさまざまな対立をはらんで胎動しはじめているのを敏感に感じとり、早くも対立解消のための見取り図を描きはじめていた。しかしその予感さえないものは、いきなり処方を示されても戸惑うばかりだろう。聡明な彼は啓蒙時代にふさわしく、近づきつつある対立の不気味な地殻変動をまず聴き手にインプットする必要を感じた。
~同上書P153-154

果たしてそれが正しい見解なのかどうかはわからない。しかし、確かにハイドンの内面で起こっていたことはそういうことだったのだろうと思う。

そのために彼は、いきなりソナタ形式で開始することを避け、第1楽章の冒頭に序奏を置く。この序奏が聴き手にいわば予備知識を与える役割を担う。序奏はゆっくりしたテンポのアダージョで、長調→短調、または短調→長調→短調と不安定に変化し、半終止か繋留の形で終わりつつ、本来の第1楽章の長調の主部に移行する。こうして序奏はなにか事件が起こる前ぶれのような緊張感をはらみ、聴き手の不安感や期待感を掻き立てる。
~同上書P154

現代では当たり前のような方法が、当時においてはほかにない、極めて斬新な手法であった。ハイドンの創造力は言語を絶する凄まじさ。

ハイドン:
・交響曲第50番ハ長調Hob.I:50
・交響曲第64番イ長調Hob.I:64「時の移ろい」
・交響曲第65番イ長調Hob.I:65
ブルーノ・ヴァイル指揮ターフェルムジーク(1993.3.27-29&4.1-3録音)

いわゆる「疾風怒濤期」の交響曲群、中でも第50番ハ長調は、序奏付の第1楽章を持つほぼ最初のケース。ブルーノ・ヴァイルの、鋭い鋼のような切れ味抜群の指揮に、ハイドンの音楽が唸りを上げる。第1楽章アダージョ・エ・マエストーソ,アレグロ・ディ・モルトの、雄渾な序奏と明朗な主部の対比に溢れ出る喜びの音。また、第64番イ長調第1楽章アレグロ・コン・スピーリトに内在する哀感の表情の見事な発露はヴァイルの真骨頂(同じく静謐なる第2楽章ラルゴの安寧もヴァイルならではの歌だろう)。そして、第65番イ長調第1楽章ヴィヴァーチェ・エ・コン・スピーリトの鮮烈な響き。

時代の急激な移り変わりを肌で感じる現代に実に相応しいハイドンの革新的交響曲の斬新ながら的を射た極めて美しい演奏は、録音から四半世紀を経てもまったく古びない。
真の創造物には普遍性がなければならぬ。

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