バックハウス ベーム指揮ウィーン・フィル モーツァルト協奏曲K.595(1955.5録音)ほかを聴いて思ふ

ヴィルヘルム・バックハウスは、セネカの「まじめな仕事が、真の喜びを与えてくれる」、あるいはゲーテの「芸術家よ、創造したまえ。語るなかれ」などの金言を好んだのだという。

重量級の、文字通り「真面目な」演奏は、ただそれだけで作品の深淵を見せてくれる。そこには永遠がある。

バックハウスとカール・ベームにまつわる興味深いエピソード。

ベームとバックハウス―この二人の大家のそれぞれの実演に接したか、あるいはそれぞれのディスクをじっくり聴かれた方には分かっていただけるだろうが、二人の音楽的気質は重なり合う部分が少なくない、といってよかろう。私の知人に、バックハウスとベーム=ウィーン・フィルによる1967年の(ブラームスの)第2番の録音の際、どういうコネクションがあったのかスタジオにいることを許され、一部始終を見ていた幸運児がいる。彼によれば、当時73歳だったベームが83歳のバックハウスに気力と音楽面の両方で押され、しばしばオーケストラを止めて、「諸君、どうしてうまくゆかないのだ。もう一度」と顔を赤くしながら躍起になってやっていたそうだ。その間、バックハウスは温顔、悠然たる態度で待っていたという。友人の観察では、「あの時はバックハウスが音楽的にベームを超えていた」。
(岩井宏之)
「クラシック不滅の巨匠たち」(音楽之友社)P119

確かにあのブラームスの録音は人後に落ちない、永遠不滅の名盤だ。
そのときから遡ること12年。同じコンビによるもう一つの不朽の演奏がある。
モーツァルトの協奏曲変ロ長調K.595。
色気のない、剛毅な、それでいて赤裸々な、最晩年のモーツァルトの魂までをも照らし出す意志の力。特に、第2楽章ラルゲットに垣間見る枯淡の境地はバックハウスの魔法であり、また終楽章アレグロの愉悦は、哀しみを秘めた透明感を獲得する。

ただひたすら音楽だけを享受せよとバックハウスは語りかける。
そして、ここでのベームは完全なるサポート役だ。

モーツァルト:
・ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595(1955.5録音)
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
・ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331(300i)(1955.5&6録音」
・ピアノ・ソナタ第14番ハ短調K.457(1955.10録音)
・ロンドイ短調K.511(1966.11録音)
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)

モーツァルト最後の年に思いを馳せるとき、僕たちにはどうしても幻想を抱き、美化してしまう傾向がある。

モーツァルトの1791年を読むにあたって、大事なことは、この年を最後の年とか、死の年とか、あまり悲壮に強調しないことである。晩年、長患いの末、ついに死を迎えたのでもなければ、円熟から枯淡の域に達した枯山水でもなかった。
つらい生活の苦しみや疲れこそあったが、人間として、音楽家として、まったくの現役で、いささかの衰えもなく完全燃焼し、たまたま病魔が《レクイエム》K.626の8小節で彼を襲った、と考えたほうが真実に近い。

高橋英郎著「モーツァルトの手紙」(小学館)P436

高橋英郎さんの指摘に納得する。

ところで、バックハウスの弾くソナタハ短調K.457第2楽章アダージョの、こぼれんばかりの愛の表現に魂が震える。陰陽の妙こそモーツァルトの業なんだとあらためて思った。

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