永井幸枝 ダグ・アシャツ グラズノフ交響曲第6番(ラフマニノフ編曲)ほか(1995.8録音)を聴いて思ふ

若きセルゲイ・ラフマニノフ渾身の交響曲第1番ニ短調作品13。
初演を託されたアレクサンドル・グラズノフの怠慢な指揮が原因で、結果は惨憺たるものだったという。

グラズノーフは緩慢で気力がなく、たえず総譜にばかり気を取られて、オーケストラの方は見向きもせずに無頓着に棒を振った。弦楽器や管楽器や打楽器のパートが彼の指揮棒に従っているかどうかは気にもしていないようだった。
ニコライ・バジャーノフ著 小林久枝訳「伝記ラフマニノフ」(音楽之友社)P159

原因は技術的なものではなかったらしい。グラズノフの、ラフマニノフの作品に対する理解力の欠如、すなわち音楽的思考の資質や芸術的主義主張の相違が招いたものだったのである。

グラズノーフほどの才能豊かな人間が、こうもひどい指揮をすることに私は驚いている! 私はもはや指揮の技術については言うまい(それについて彼に求めるものはなにもない)。私は彼の音楽性について言っているのだ。彼は指揮をしている時、なにも感じていないのだ。彼はまるでなにもわかっていないかのようだ。
~同上書P161

2ヶ月後にラフマニノフはそう激白する。
ちなみに、当日(1897年3月15日)の前プロには、グラズノフ自身が作曲した交響曲第6番の初演が充てられていた。

演奏会はグラズノーフの第6交響曲の初演で始まった。
なんと素晴らしいオーケストラだろう! セルゲイは羨望の影すらなく、競争相手の幸運と申し分のない成功を喜んだ。もしこのまだ目覚めていないカシチェイの王国に、冷たいかたくなな心の王国に、人びとにこのような喜びを贈り自らも感じた人間がいたならば、それだけで彼はすべてを許されただろう。

~同上書P160

初演の失敗によりその後、神経衰弱に陥ったラフマニノフは、背中や足、腕に強烈な痛みを訴え、医師の勧めもありイグナトヴォでの静養に入った。興味深いのは、たとえそうだとしてもラフマニノフ自身はグラズノフに対して根深い恨みを持たなかったであろう点だ。何とそこで、彼はグラズノフの交響曲第6番の2台ピアノ版の編曲に取り組んだのである(1897年編曲版は出版され、ラフマニノフは200ルーブルを受け取った)。

しかしながら、一方のグラズノフは、あくまで自身による編曲に執着があったようで、ラフマニノフへの感謝の意を表する手紙を書けていないことをスロノフ宛ての手紙(11月4日付)で告白している。たぶん、たぶんだが、グラズノフにもラフマニノフに対する競争心と大きな嫉妬が生まれていたのだろうと思う。

それほどに交響曲第6番のラフマニノフ2台編曲版は素晴らしい出来だ。グラズノフの保守性とラフマニノフの煌く革新性の掛け算か。

・グラズノフ:交響曲第6番ハ短調作品58(1897)(ラフマニノフ編曲)
・ラフマニノフ:幻想曲「岩」作品7(1893)(ラフマニノフ編曲)
・スクリャービン:法悦の詩作品54(1907)(レオン・コナス編曲)
ダグ・アシャツ(ピアノ)
永井幸枝(ピアノ)(1995.8.6-8録音)

第1楽章アダージョの明快な音調はグラズノフ発だが、時に魅せるピアノの空ろな表情は明らかにラフマニノフのもの。第2楽章主題と変奏は、まるでアンビエント音楽のような自然さ。そして、第3楽章間奏曲の優しく親しみのある歌。終楽章アンダンテ・マエストーソは開放的かつ明朗な音調を湛える。

あれについてなにを話したらいいのでしょう!? 1895年に作曲され、1897年に演奏されたのです。失敗でした。といってもなんの根拠もないのです。よいものが落とされて、ひどいものが結構気に入られていました。交響曲は公開されるまでは、大げさな最高の評価を受けていました。初演のあと評価はがらりと変わりました。たしかに私が今考えてみても、あれは中程度の作品です。各所にかなり良い音楽がありますが、また少なからず薄弱な幼稚な不自然な誇張した面もありました。
~同上書P346

交響曲第1番初演から20年後、若手音楽評論家のボリス・アサーフィエフの質問に答えて、ラフマニノフはそう答えている。とすると、グラズノフの第6番のアレンジは、ラフマニノフのグラズノフへのある種挑戦だったと考えても良いのかも。

ロシアの音楽は、(作曲者の内面がどう反応しようとも)豊かで清らかだ。

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