ストラヴィンスキー指揮コロンビア響 「火の鳥」(1910年版)(1961.1録音)ほかを聴いて思ふ

ストラヴィンスキーの初期バレエは、何といっても目に見えるような豊かな色彩感が魅力。
物語を音化する力量と、エネルギッシュな音圧に支配される創造の魔法。
彼の、ハーヴァード大学での詩学講座最終講義には次のようにある。

どこかで私は、音楽を聞くだけでは不十分で、さらに音楽を見る必要があると言いました。あまりにもしばしば音楽のメッセージを伝えるという使命を自らに与えて、そのメッセージを見せかけで歪めている、あの気取り屋たちの礼儀の悪さについてはなんと言えばよいのでしょう。というのも、繰り返して言いますが、音楽とは見られるものなのです。経験豊かな目は、ときとして自分の知らぬ間に、演奏実行者のほんの些細な身振りをすら追い、判断します。この観点から、演奏実行のプロセスは、舞踊の領域で提起される諸問題に類似した諸問題の解決を前提とする新しい価値の創造と考えられます。そこここで、私たちは身振りの調整に注意を払います。舞踊家は無言の言語を話す弁士です。楽器奏者は言葉にならない言語を話す弁士です。どちらにも同じように、音楽は厳格な姿勢を課します。なぜなら、音楽は抽象のなかで動きはしないからです。その造形的な表現は正確さと美しさを要求します。大根役者はそのことをいやと言うほど理解しています。
「第6課 演奏について/エピローグ」
イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「音楽の詩学」(未來社)P120

この講義を読み、そして、ストラヴィンスキーの自作自演を聴き、音楽とは、確かに「見る(観る)もの」なのだと僕も思った。

ストラヴィンスキー:
・バレエ音楽「火の鳥」(1910年版)(1961.1.23-25録音)
・ロシア風スケルツォ(1963.12.17録音)
・幻想的スケルツォ作品3(1962.12.1録音)
・幻想曲「花火」作品4(1963.12.17録音)
イーゴリ・ストラヴィンスキー指揮CBC交響楽団/コロンビア交響楽団

「火の鳥」全曲が美しい。
イーゴリ・ストラヴィンスキーの演奏には、なぜか心地良い訛りがある。

なぜロシア音楽については、ただ単に音楽としてではなく、つねにロシアの音楽として語られるのを私たちは耳にするのでしょうか?なぜなら人々は、風変わりなもの、珍しいリズム、オーケストラのさまざまな音色、東洋趣味、一言で言えば、地方色に執着するからです。ロシア的、あるいはロシア的だと主張される外見に関心を抱いているからです。つまり、トロイカ、ウォッカ、イスバ、バラライカ、ポープ、ボイヤール、サモワール、ニチェヴォ、そしてボルシェヴィキ主義ですらがロシア的だと言われるわけです。
「第5課 ロシア音楽の変化」
~同上書P87

ストラヴィンスキーは、おそらく聴く者を十分に意識して指揮をしているのだろう。「火の鳥」導入部から第1場へのつながり、また、第1部の全体の構成の妙、すべてが自身の作曲の産物であるとはいえ、極めてロシア的で、また自然体。奇を衒わず、ただひたすら音楽を見せる姿勢が本当に素晴らしい。

魔法が解け、とらわれの王女たちは自由の身に、石にされた騎士たちも人間に返る。なんと楽観的なシーンであり、喜びに溢れる音楽なのだろう。第2場「カスチェイの城と魔法の消滅―石にされていた騎士たちの復活、そして大団円」の、大らかなファンファーレに感応するも、余分なものを付け加えない、脱力の表現に僕は思わず快哉を叫ぶ。

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