今日は暖かく南椽に出て見ると、庭の奥の方の松のかげに、黄ろい光った三四輪の花を見出したが、すぐに福寿草の花であることが分った。こういう荒れた庭に福寿草が咲くのは、先住の人が植えて忘れて行ったものと見える。貸家の常とはいえ、先きに住んだ人を床しいと思わない訳にゆかない。貸家とはいえ一木一草を抜いて引越すのが例であるのに、こういう春花を庭に見出すことは何か人情的に嬉しいことであり、春が来た感じが一層深いのである。
~室生犀星「加賀金沢・故郷を辞す」(講談社文芸文庫)P127
犀星のような一流詩人の観察眼は凡人とは実に違う。「馬込の春」と題するエッセイに、初春の時期のとりとめもない、自然の悪戯なのか、そこに人為があれ何であれ、生きとし生けるものの尊さを僕は感じる。すべては自然体でなければならぬ。
本日、岩手県では気温30度を超える真夏日だったそう。
4月も中旬に入ると至るところ陽気に満ち、大自然は喜びに溢れる様相を示す。
ルイジ・ボッケリーニ。1743年2月19日、トスカーナ大公国はルッカ生まれ。そして、1805年5月28日、スペイン王国はマドリードにて死没。彼の書いた膨大な作品群を認知するのはヴィヴァルディのケース同様なかなか骨の折れる作業だが、その典雅な響き、美しい旋律などは、同時代のハイドンやモーツァルトを凌駕するものであり、簡単に無視することはできない。
アンナー・ビルスマのチェロを聴いた。
ノンヴィブラートの、軽快な音楽が心に沁みる。
それは戦争中のことだった。ビルスマが終戦を迎えた11歳の頃について質問をすると、「その当時、世界は小さかった。人々は貧しかった。父親は仕事もなかった。ひどい時代でした」とだけ答えがあり、それ以上の話は続かなかった。話題はシモン・ゴールドベルクが自分の師匠だった、ということに移ってしまった。戦争についてあまり語りたくなかったのかもしれない。
~「考える人」季刊誌2007年夏号(新潮社)P62
ビルスマの記憶は哀しい。彼の奏する音楽にも、無論意識はないだろうが、どこか悲しみがついて回る。
中では、グルックの主題を引用した交響曲ニ短調「悪魔の家」の素晴らしさ。何よりグルックそのものを髣髴とさせる勢いの第1楽章アンダンテ・ソステヌートの軽快美。ちなみに、ビルスマのチェロはどの楽曲においても緩徐楽章が肝だ。例えば協奏曲ト長調G.480第2楽章アダージョは思念漂う渾身の表現ではなかろうか。
なぜ古楽器なのか。それは当時の楽曲と、当時の楽器による奏法を甦らせることによって、音楽を新しくする試みだ、と漠然と思っていた。しかしなぜ1950年代あたりから、ヨーロッパでそのような「運動」が盛り上がることになったのか。
戦争はヨーロッパ全土のあらゆるものを破壊し、失われたものは永遠に戻ってこなかった。ビルスマも、ブリュッヘンも、レオンハルトも、アーノンクールも、同世代の彼らは、少年の目で、それらを目撃していた。戦争は終結し、復興が始まり、冷戦が深刻化する。演奏会も再開し、欠乏していた物資も、滞っていた経済発展も動き出す。大きく失われたものが背後にあって、しかし前方に見えてきたものは、明るい未来、と言えるのかどうか。未来は、さらに何かを奪ってゆくものになりかねないのではないか。
~同上書P62
喪失や破壊から始まる新たな獲得と創造。しかし、そこにはいつも得体の知れぬ不安という厭世がつきまとう。芸術とはそういうものだ。ビルスマのチェロが泣く。