ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団第675回定期演奏会

今宵の、ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団定期演奏会に僕は酔った。
演奏中、僕の脳みその中は空想に溢れていた。
未知の世界を完全踏破することが、いつの時代も天才たちの目標であり、また目的だったのだろう。しかし、再生がうまくなければ、天才たちの目的が叶うことはない。その点、予想通りノットは見事だった。完璧だった。

仮の世界と真の世界の狭間を往来する20世紀初頭の音楽たち。
グスタフ・マーラーはギリギリ間に合わなかったようだ。一方、アルバン・ベルクは幸運にも真の世界の一端を垣間見たのでは?

西欧音楽世界にあって、アーノルト・シェーンベルクの登場以前を仮の世界だとするなら、それ以後にこそ真の世界があるのではないかとアルバン・ベルクを聴いて直観した。いわゆる「浪漫」は人間の心が生み出した美の極致だが、そこには知的でありながらあまりに巨大化した無理があった。

ベルクの音楽には調和がある。一見、混沌とした爆発と沈静の繰り返しの中に、計算された理知の極みともいえる幸福がある。本当の美しさって何だろう?
「3つの小品」を聴きながら、僕は、旋律的かつ和声的であることが決してそうではないのだと反芻していた。混沌ギリギリの拡大の中で生み出される阿鼻叫喚と、いかにも夜の音楽をなぞる官能の音。ジョナサン・ノットと東京交響楽団の創造する、ベルクの挑戦的な音楽は、色彩とアンサンブルの精緻さと、個々の楽員の技術と、すべてにおいて聴き手の想像を大きく上回り、実に耳に馴染み易いものだった。

東京交響楽団第675回定期演奏会
2019年11月16日(土)18時開演
サントリーホール
水谷晃(コンサートマスター)
ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団
・ベルク:管弦楽のための3つの小品作品6(1915)
休憩
・マーラー:交響曲第7番ホ短調「夜の歌」(1904-05)

後半。マーラーの挑戦はいつどんなときも革新的で、また果敢だった。しかし、残念ながら時代が早過ぎた。いまだ開かれていなかったのである。
これまで幾度か実演に触れてきたマーラーの交響曲第7番だが、今夜の演奏は随一だったかも。楽器のバランス、浮き沈み、テンポの絶妙な揺れ、強音の、決して煩くならない激性と、弱音のあまりに神秘的な音の対比、どこをどう切り取っても指揮者グスタフ・マーラーの再来なのかと思わせるほどの見事な暴れっぷり。まさに自家薬籠中という表現がぴったりの演奏。音楽は隅から隅まで精巧を極め、一切の破綻なく、支離滅裂だとされるかの交響曲が常に調和の中にあったのだから、それは大したもの。東京交響楽団の演奏技術の確かさに僕はとても感動した。

第1楽章ラングザム―アレグロ・リゾルート・マ・ノン・トロッポの、主題を奏でる金管群の朗々たる響きに思わず卒倒した。冒頭からテンポは伸縮激しく、また蠢き、音楽が生きていた。続く第2楽章「夜の歌」アレグロ・モデラートは、俗世のマーラーの感情を投影する歌。一方、第4楽章「夜の歌」アンダンテ・アモローソは、聖なるマーラーの理性の象徴だ(コンサートマスター奏する独奏ヴァイオリンの切なさよ)。白眉は、愛すべき終楽章ロンド―アレグロ・オルディナリオ。この、躁的な、あまりに明快過ぎる音楽こそ、世界の開放を求めたマーラーの心の、否、魂の声だ。
今夜のノットの指揮は、間違いなく第1楽章と終楽章に重点が置かれていたように思う。そして、ユニークな第3楽章スケルツォは集中力に富んだ、自然体の運びの中にあった。言葉が出ない。

身体中の血液が沸点に達したかのような興奮と充実感はいまだ冷めやらず。

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