抜群の選曲。このコンビにもはやハズレはない。
めくるめく管弦楽の妙技。あるいは、全方位を感化する合唱の調べ。緊張感は途切れることなく、現代の作品と古の音楽が無理なく混在する様子に、僕は思わず唸ってしまった。終演後の、指揮者への恒例になったいわゆる一般参賀の盛大さも頷けるというもの。
生と死を、そして天上での浄化をモチーフにした作品たちが、ホールに鳴り響く。天才といえど、所詮人間が生み出した音楽ゆえ、その描写力は人智を超えることはない。しかし、音の波動として僕たち聴衆に与えられた感銘は、ここ最近では随一のものではなかろうか。隅から隅まで磨き上げられた音の魔法。僕は心底感激した。
鉄壁のヨハン・シュトラウスⅡ世。まるでマーラーのような、世紀末ウィーンの退廃を、自由でありつつ堅牢な舞踊の中で表現しようとする意志。「芸術家の生涯」とは、そもそも自由である筈なのに、しかし苦悩の中にあるという葛藤が、これほど喜びに溢れ、示されたことがかつてあったのだろうか。ジョナサン・ノットの棒はいつも明快だ。
そして、ジェルジ・リゲティのレクイエムの(耳をつんざく)狂気と官能に、僕は思わず卒倒した。「入祭唱」の静謐なる神秘。「キリエ」の阿鼻叫喚は、いわば六道輪廻を抜けることのできない苦しさを無意識に表現したものなのかどうなのか。サラ・ヴェゲナー、ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー、二人の独唱者の、人間技とは思えぬ歌唱に耳を奪われながら、東響コーラスの繊細かつ力強い脱力の合唱にも思わず心震えた。また、「審判の日:続唱」は、前楽章と同じく強烈なエネルギーを発散し、続く「ラクリモサ」の回想に、僕は安寧よりも不安を感じた。おそらく作曲者は知っていた。人間が特別な秘法を体得しないと恐るべき輪廻から抜けられないことを。リゲティのレクイエムを実演で聴いて思う。通常の鎮魂曲が、何と陳腐に聴こえることか。ジェルジ・リゲティ万歳だ。
東京交響楽団第672回定期演奏会
2019年7月20日(土)18時開演
サントリーホール
サラ・ヴェゲナー(ソプラノ)
ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー(メゾソプラノ)
東響コーラス(合唱)
グレブ・ニキティン(コンサートマスター)
ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団
・ヨハン・シュトラウスⅡ:ワルツ「芸術家の生涯」作品316
・リゲティ:レクイエム
休憩
・タリス:スペム・イン・アリウム(40声のモテット)
・リヒャルト・シュトラウス:交響詩「死と変容」作品24
20分の休憩後、まずはトーマス・タリスの40声のモテット「スペム・イン・アリウム」。無伴奏混声合唱が真に神々しく、40の声部に分かれて繰り広げられる様に感動しつつ、しかし、ここにも残念ながら天上はなく、どんなに透明な聖なる音をこしらえようと、あくまで人間世界からの祈りに終始することを静観する僕がいた。大切なことは、自らの内なる神だと。
望みを、私は他に置くことなく、
あなただけに託してきました。イスラエルの神よ。
(秋岡陽訳)
そして、交響詩「死と変容」の無上なる有機的な音!!
いわば生への執着と愉悦を顕すヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツと対をなすリヒャルト・シュトラウスの死と浄化の物語は、官能の一つの成果であり、実演に触れてこそその真価が体感できるというもの。今日の名演奏は、東京交響楽団の各奏者の技術レベルの高さ(特に荒木奏美さんのオーボエ!)に依拠するものだが、それらを容易くまとめ上げ、作品に命を吹き入れるノットの慧眼、あるいは棒の技術に思わずため息が出た。序から主要部に入るや激烈なティンパニと、席巻する激しくも劇的なオーラに拝跪する。何よりコーダの幸福感!
終演後の充実感はどれほどのことか。
すべてが素晴らしかった。感動冷めやらぬ真夜中に思うのは、ジェルジ・リゲティのこと。今日の「レクイエム」の強烈さ(僕の隣に座った老年の淑女は途中耳栓をされていたけれど)。
オーボエは荒さんではなく、荒木さんでした。
ホヤ様
ご丁寧にありがとうございます。
訂正しておきます。
[…] 2019年に聴いたノット指揮東響の実演の阿鼻叫喚に僕は心底感激した。さすがに録音ではそこまでの感動はない。 […]