あれから30年以上の歳月を経ているが、色褪せるどころか、今もって十分に通用する、巨大で重厚な音。リヒャルト・ワーグナーがスコアに指定したその通りに楽器を使い、全曲を演ったというのだから、恐れ入る。
サヴァリッシュが「うらやましい」ってね、「私は、一遍どうしてもステージの上で、皆明るいところで誰もごまかせないところでやりたい。歌手が楽譜を見て、楽員がちゃんと並んでやらないと、ウソばっかりやるから」と言うんだな。ボックス(オーケストラ・ピット)に入ってると、どうしてもそうなるんでしょうな。
~金子建志編/解説「朝比奈隆—交響楽の世界」(早稲田出版)P320
オペラの実情とはそういうことのようだ。
歌い手は皆よく勉強しましたね。4年半かかってんですからね。それから、オーケストラがよく文句言わなかった。今でも顔ぶれは変わってないですけど、新日本フィルの楽員というのは偉いものだと思いますね。
だいたい、私がもう〈ジークフリート〉くらいでへたばってきて、「誰かに代わってもらえないかなあ」ってかなり本気で言ったんですけど、「がんばってくださいよ、ちゃんとやりますから、まかしといてください」と言ってたのは楽員達ですからね。「うん、そうか、そうか」ってかろうじて・・・大変でしたよ。
当時、ちょっと体調が悪くってね。医者も静養した方がいって言うしね。せがれや女房にいたっては「もう指揮はやめた方がいい」とまで言いましたから。
~同上書P318
当時の舞台裏が覗けるようで興味深い。
もちろん体調不良をおして指揮を執った朝比奈の勲章でもあるが、このエピソードからはオーケストラの根性というか、気力というか、力量がものを言っていることがわかる。誰もが本気だったのである。その演奏が聴衆の心を打たないはずがない。
朝比奈隆の音楽は、どの瞬間もテンポは遅い。もちろん呼吸も相当に深い。
「指環」の名シーンを切り取ってのハイライト版だが、指揮者の思わしくない体調とは裏腹に、ワーグナーの魔法が見事に再現される様に僕は感動を覚える。特に、朝比奈がへばって、他の指揮者への交替を請うたという「神々の黄昏」からの抜粋が、(おそらくオーケストラの気合い十分の演奏のお陰だろう)これ以上ないという壮大な表現によって朗々と奏されるのだから堪らない。荘厳な「葬送行進曲」、そして、終曲「ブリュンヒルデの自己犠牲」における最後の、管弦楽による「愛の救済」の動機が鳴り響くシーンの神々しさ。
彼は死を迎える前々日に「このところ、親しかった女性たちがつぎつぎにわたしの傍らを通っていく」と語っている。1月には先妻のミンナ、2月に入って10日に母親、11日に青年時代の偶像だったシュレーダー・デフリーント、12日はチューリヒ時代のミューズ、マティルデ・ヴェーゼンドンクというように、彼の生涯に重要な役割を演じた女性たちが続けざまに彼の夢に現われた。とりわけ母親は、彼が現実には知らなかったようなうら若いたいそう優雅な女性として彼の前に現われたが、「永遠に女性なるもの」の追求が彼の生涯の主題であったことをあらためて追認するような一連の夢だった。
~三光長治著「カラー版作曲家の生涯 ワーグナー」(新潮文庫)P185-188
満たされない純愛の追求が主題であったことの悲哀を、朝比奈は無骨に、堂々と表現する。
嗚呼、言葉にならない永遠よ。