朝比奈隆指揮大阪フィル ベートーヴェン第6番「田園」(2000.3.10Live)ほかを聴いて思ふ

人間社会の喜びと自然の猛威を対比させ、最後には、人々に大自然への崇敬の念を喚起する様が描かれる大交響曲。クライマックスで一条の光が差し込み、大光輪へと変化した後の静かな祈りは、楽聖ベートーヴェンの悟りの境地の賜物か。
3つの楽章が、間断なく一つになる。
「田園」交響曲は稀代の傑作だと僕は思う。
大自然への大いなる讃歌でありながら、その表現は、枯れていてはならない。あくまで熱を持ち、慈愛の温かさが刻印されないと名演奏にはならない。
その意味では、一筋縄ではいかない作品だろうと想像する。

朝比奈隆指揮大阪フィルの最後のツィクルスでの「田園」は、残念ながら不出来だ。
指揮者の枯淡の心境の刻印だと言えば、聞こえは良い。しかし、音楽は集中力を欠き、僕にはスコアをなぞらえただけの、魂の入っていないものにすら聴こえ、感動まで至らない。

これはだいたい《田園》なんていう題がいけません。そんなのんきなシンフォニーじゃありませんよ。田園に着いた時にどうしたとかこうしたとか、いろんな注釈がついていますが、あれはベートーヴェンが本当に題のつもりで書いたのか、何となくメモ、心覚えみたいなものだったんじゃないでしょうか。あの題のおかげで何か音楽のとらえ方が甘くなるし、すっと弾けばいいなんて考え方が出てきてしまう。終楽章なんかものすごい大きな音楽ですし。大シンフォニーですよ、これは。
朝比奈隆+東条碩夫「朝比奈隆 ベートーヴェンの交響曲を語る」(音楽之友社)P120

御大の言葉通り、決してのん気な交響曲ではないと僕も思う。
ともかくベートーヴェンの交響曲の中でも最も演奏者泣かせの作品だそうだ。実際、幾度も聴いた朝比奈隆の演奏でも、僕が心底感動したのはたった1度きり、忘れもしない1989年4月6日はサントリーホールでの新日本フィルとのツィクルスのときだけである(あれからもう30年になるとは!)。

ベートーヴェン:
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(2000.3.10Live)
・リハーサル風景―第1楽章&第2楽章(2000.3.9録音)
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(2000.3.12Live)
・リハーサル風景―第3楽章、第4楽章&第5楽章(2000.3.9録音)
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

例えば、(2000年3月10日、大阪はフェスティバルホールでの)第4楽章「雷雨、嵐」におけるティンパニの打撃は無造作で、また無機的に聴こえる。金管群の咆哮もやけにうるさい。しかし、さすがに終楽章「牧歌―嵐のあとの喜びと感謝」は、音楽がよくできているせいか、朝比奈の踏み外しも少なく、心のこもったものだ。

最も室内楽的な曲というせいもあるでしょう。3楽章から後は、そう、バタバタすることはないんですが、問題は1,2楽章でしょうね。1楽章は何もしてはいけない―というか、することが無い―という難しさがあって、これはもう室内楽的に、きちっと演るしかない。
第2楽章は、あの遅さに、あの長さ・・・長いですからね。書いてあるダイナミック通りにやりさえすればいいのですが、オケも指揮者も技術的に大変難しい。あれは必死に棒を振らないと―ちょっとでも手が乱れたら、がたがたになりますからね。3楽章から後は、人が変わったみたいになるので、楽になるのですが、5楽章が、またな物かも知れませんね。オケも指揮者も、書いてあることを演るだけで余計なことはできませんから。

~FOCD90001/7ライナーノーツ

人が手をかける余地のない、完全なる音楽ということか。

ところで、2000年3月9日、大阪フィルハーモニー会館でのリハーサルを聴いていて僕は思った。オケの鳴りが充実し、音楽の恰幅と内面の充実度が長けていて、本番の演奏より格段に良いのである。会場の音響効果のせいもあるのかもしれないが、何とも不思議。たぶん、朝比奈の余所行きでない、自然体の演奏の方が、人の心を打つのであろう。
朝比奈御大が「余計なことはできない」という理由がとてもよくわかる。

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2 COMMENTS

桜成 裕子

おじゃまします。ただただ「田園」がテーマになっているだけでおじゃましています。
朝比奈隆さんは、指揮者として曲への対処について正直に語っておられるので、とても面白く参考になります。「田園」はベートーヴェンの人生を表す最重要作品の一つだと思います。ベートーヴェンが、何かと煩わしい都会での人間関係の軋轢から離れて田舎の大自然の中に身を置いた時に感じた幸福感、開放感、自然に対する畏敬の念などがどれほど大きく慕わしいものだったかをこの交響曲から如実に感じ、聴いているこちらもあたかもその田園生活の中に身を置いてベートーヴェンの感覚を味わっているような気になり、その感動が伝わってきます。「音楽がよくできているせい」でしょうか。どんな演奏を聴いても感動できる曲だなあ、と思っていました(ちょっとした不満はあれど)。実は一筋縄ではいかない曲だったのですね。確かに2楽章などはゆっくりで長いですが、「必死に棒を振らないと―ちょっとでも手が乱れたら、がたがたになる」ほどの難しさだというお話しは新鮮でした。(その点では第九の3楽章もそうかもしれない、でしょうか。)しかしながら、「これはだいたい《田園》なんていう題がいけません。そんなのんきなシンフォニーじゃありませんよ。田園に着いた時にどうしたとかこうしたとか、いろんな注釈がついていますが、あれはベートーヴェンが本当に題のつもりで書いたのか、何となくメモ、心覚えみたいなものだったんじゃないでしょうか。あの題のおかげで何か音楽のとらえ方が甘くなるし、すっと弾けばいいなんて考え方が出てきてしまう」とのお言葉は、あまりにのんき過ぎるのではないでしょうか。ベートーヴェンは「性格交響曲(Sinfonia caracteristica) あるいは田舎の生活の思い出」と題し、「田園交響曲」は音による絵画的描写ではなく感情の表現である、と言っています。朝比奈隆氏はそこをよく理解しておられたのかな?とふと思い、岡本さんが、「音楽は集中力を欠き、スコアをなぞらえただけの、魂の入っていないものにすら聴こえ、感動まで至らない。」と感じられたのも、そんなところに原因があるのでは?と不遜ながら思ってしまいました。聴いてもいないのに勝手なことを書き連ねてしまい、失礼しました。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

そもそも楽譜とは具体的でありながら解釈が人の数だけある抽象的なものですから、批評自体が成り立つものではないですよね。勝手にしやがれ、です。(笑)
とはいえ、朝比奈さんの見解は、演奏者の視点で、その意味では彼の言葉には重みがあるように僕は思います。
あくまで、指揮者、演奏者の観点からはやっぱり難しいのかもしれません。その点、第9のアダージョ楽章に対してはそういう言葉がみつからないので、さすがに晩年の作品だけあり、よく練られているのでしょう。

機会ありましたら本演奏と、1989年の新日本フィルとの演奏を聴き比べてください。歴然と違います。
「田園」に限らず、全曲素晴らしいセットです。

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