ハイドシェック ベートーヴェン ソナタ作品110&111(1963頃録音)を聴いて思ふ

すでに昨年以来、現在まで私はつねに病気で、この夏はその上、黄疸にもなりました。これは8月末まで続き、シュタウデンハイマー(主治医シュタウデンハイム)の指示により私はなお9月にバーデンに行かなければならず、同地域では間もなく寒くなりましたし、私は激しい下痢に襲われ療養を続けることができず、再び当地(ヴィーン)へ逃げ帰らざるを得ませんでした、現在は幸いにもよくなり、ようやく私を健康が、再び新たに活気づかせようとしているように思われます、再び新たに私の芸術のために生きるようにと。それはそもそも2年来、健康の欠如から、またたいへん多くのその他の人間的苦悩のために、ありませんでした。—ミサ曲はもっと早くに発送されるところだったのですが、(中略)そういう状態には私は病にあって至らず、あまつさえ、私はそれにも拘らず私の生計を考えるとさまざまなパンのための仕事(残念ながら私はこれをそう呼ばざるを得ません)を果たさざるを得ませんでした。
(1821年11月12日付、フランツ・ブレンターノ宛)
大崎滋生著「ベートーヴェン 完全詳細年譜」(春秋社)P388-390

大作「ミサ・ソレムニス」創作の傍ら、お金を稼ぐために生み出された最後期の3つのピアノ・ソナタは、(上記手紙にあるように、実際の状況とは裏腹に)悟りのベートーヴェンの象徴の如く、澄んで清らかで、その音の中にいるだけでまるで昇天の境地に誘われる傑作たちである。

若きエリック・ハイドシェックの演奏は、アンドレ・シャルランのワンポイント録音のせいもあろう、とても集中力に富んだ表現で、筆舌に尽くし難い出来を示すものだ。

彼の演奏は、作品のあまりの高貴さに比して、決して近寄り難いものではない。
そこには、ヒューマニスティックな彼の性格が反映されてのことなのか、人間性溢れる、温かい、いつまでも心に残る、ベートーヴェンの真の愛が詰まった音楽がある。

かつて宇野功芳さんは、対談で次のように語っている。

一言でいうと陽気なフランス人。ステージで困らせられるのとは正反対に、誰に対しても気をつかう、サービス精神いっぱいの人です。一緒にいる人を幸せにする才能があります。

芸術家ぶったところがぜんぜんないんですよね。それでいて生き方や人間性そのものにファンタジーが垣間見える。真の芸術家とはハイドシェックのような人をいうんだと思います。
~エリック・ハイドシェック ピアノ・リサイタル1994プログラム

ファンタジーは思考からは生まれ得ないだろう。
ハイドシェックはやはり感覚の人なのだと思う。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110
・ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111
エリック・ハイドシェック(ピアノ)(1963頃録音)

作品110第1楽章モデラート・カンタービレ・モルト・エスプレッシーヴォ主題の夢幻の歌!!これほど生命力に富む可憐な旋律があるだろうか。何より低音部の充実した音色!第2楽章アレグロ・モルトの重心の低い、コントロールされた響き。そして、終楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポ序奏の神秘と、続く「嘆きの歌」のあまりの美しさ、その後のフーガの、幻想を打破する圧倒的音響に舌を巻く。

作品111は、より一層刺激的だ。第1楽章序奏マエストーソの激性、そして、速い主部アレグロ・コン・ブリオ・エド・アパッシオナートの文字通り熱気!!白眉は第2楽章アリエッタの、人間の思念を超えた黄泉の世界への上昇に涙する。

ちなみに、大木正興さんは、ライナーノーツに次のように書く。

変奏曲楽章の最後のところで、精神が一点の疑念を残さず浄化され、遙か高い天空にエーテルのように舞いあがるのをきくとき、そこにはすでに何ものもつけ加える余地のないことを実感せずにはいられないのである。
KKC-4059ライナーノーツ

実にうまいことをおっしゃる。エリック・ハイドシェックの演奏は生きている。

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3 COMMENTS

桜成 裕子

おじゃまします。 このCDを聴いてみました。 以前からハイドシェックの名前は知っていたものの、フランス人の優男的外観から、ベートーヴェンとはあまり縁のない人、との偏見を持っていました。美しく澄んだ音で、31番の第1楽章はていねいで可憐さが際だっています。2楽章は本当によくコントロールされていて上手い、「嘆きの歌」は主旋律が強く際立って緩急をつけて嘆きを訴え、一転してフーガでは淡々とした静謐な調べで始まり、徐々に深み厚みを増していくダイナミックさ。32番の1楽章は、今まで聴いたことがないような、この曲のツボをよく押さえた演奏と感じました。2楽章、どの音も聞き逃せない充実感。31番も32番も共通して、伝えたいことがはっきりとしていて説得力を持って伝わってくる雄弁さ、かといって押しつけがましくなく、あっさりとした引き際・・・この深刻さと一線を画した洒脱な印象は、フランス人だからなのでしょうか。「感覚の人」だからでしょうか。ドイツ的観念演奏も好きですが、フランス的感覚演奏もいいですね。ハイドシェックといい、ミュンシュといい、クリュイタンスといい、ドイツ(ベルギー)の家系でありながら文化的にはフランス系の人に、何か共通点があるのでしょうか。 
 それにしてもこれらのソナタが「パンのための仕事」とは到底信じることはできません。31番も32番も不滅の恋人条件にこれ以上なく合致するアントーニエに献呈するつもりで作曲されたようですし(学者の中には31番はこの年の3月に亡くなった不滅の恋人のヨゼフィーネの鎮魂のために作曲されたと主張する人も)、ピアノソナタの「白鳥の歌」である32番のアリエッタは、もう「何をも付け加えられる余地のない」ほど昇華・完成された作品で、32番はベートーヴェンのピアノソナタの集大成と言えるとのことです。思うに、このフランツへの手紙は、ミサ・ソレムニスの発送が遅れたことに対する言い訳ではないか、と。病気のことや生活苦のことを書き連ねてフランツの慈悲に訴えようとしたのでは?「人間的な苦悩」として、甥のカールの裁判沙汰や特にヨゼフィーネの苦境と死等が考えられるとすると、ベートーヴェンが深い想念に陥って、このような深遠な最終ピアノソナタが生まれたのでは?ベートーヴェンという人は、特定の女性に抱いている愛情を、周囲の誰にも気づかれないようにしていたようで(熱烈なラブレターを書き送っていたヨゼフィーネのことを、親しい友人の誰も感づいていなかったそうです)、アントーニエにせよヨゼフィーネにせよ、女性に捧げる曲を作っていたことを、「パンのための仕事」とカモフラージュしたのでは、と思われるのです。
 えらそうにまた書き散らしてすみません。 ハイドシェックの31番32番に出会わせていただいて、ありがとうございました。
 

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

作品111にまつわる深読み、さすがです。
なるほどと納得させられました。「パンのための仕事」というのはカモフラージュかもしれませんね。そう言われるとそんな気がします。(笑)

あと、ハイドシェックの演奏ですが、どちらかというと堅牢なドイツ的l構成に自由さを獲得したもので、ベートーヴェンやブラームスに適正だと僕は思います。演奏自体はニュアンスに溢れる感覚的なものですが、相当なテクニックに裏打ちされたものなので、彼のベートーヴェンはどれもおすすめです。全集もあるので聴いてみてください。

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桜成 裕子

岡本 浩和 様

 ありがとうございます。 本当にどれも聴きたくなりました。とりあえず28番、30番を聴いてみます。

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