ロストロポーヴィチ サージェント指揮ロイヤル・フィル プロコフィエフ 交響的協奏曲(1957.4録音)を聴いて思ふ

交響的協奏曲ホ短調作品125。
チェロ協奏曲第1番の大幅な改訂によるいわば協奏曲第2番。その改作は、体制により迎合するべく行ったとみるか、純粋な進化とみるか、視点は様々だろう。1952年1月、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチの全面的協力を得て、プロコフィエフはチェロのための大協奏曲を完成させる。

作曲家にとって社会主義の時代をうまくやってゆきながら音楽言語を追求するのは価値のあることだが、難しいことでもある。われわれの国で音楽は多くの民衆に残された遺産となった。大衆の芸術的趣味と要求は驚くべき速さで成長している。そしてこれはソヴィエト作曲家が各々の新しい作品で考慮しなければならない点である。
それはまるで動く標的を撃つようなものだ。先んじて明日への狙いを定めるしか、過去に必要とされた程度の水準に置き去りにされることを避ける方法はないのだ。作曲家が単純化を狙うことを間違いだとわたしが思うのは、そういう理由からである。聴衆を“軽く扱う”試みはすべて、聴衆の文化に関する成熟と嗜好の発達を無意識に低く評価していることと同じである。このような試みには不誠実な要素がある。そして不誠実な音楽が長続きするわけがない。

田代薫訳「プロコフィエフ自伝/随想集」(音楽之友社)P174

1937年の「プラウダ」誌に掲載されたこの論文は、作曲家の性質、あるいは思考を端的に表現しており、また的を射たものだと僕は思う。プロコフィエフは自己批判精神が極めて強かった。体制に迎合するでも、聴衆に媚を売るでもなく、ただ誠実に音楽に向かった。その結果が、交響的協奏曲という作品に結実したのだ。

夜になって冷たい雨が降る。
師走の東京は、空気が凍てつき、ときに心までもが寒くなる。
そんなときに必要なものは、ヒューマニスティックな音楽だ。
僕は、ロストロポーヴィチの温かいチェロの音を聴きながら、トルストイの「復活」における、ネフリュードフのカチューシャへの不義のシーンを思い出した。深層の慈しみをすっかり忘却し、体裁と気取りだけを大事に扱った青年ネフリュードフの不遜をだ。

あのころの彼は、それが善行でありさえすればどんな犠牲もいとわぬ、純真で献身的な青年であったが、今の彼は自分の快楽だけを追求する、堕落しきった、骨の髄までのエゴイストであった。あのころは、神の創造したこの世が神秘的なものに思われ、彼は喜びと感動にかられてその謎を解こうと一所懸命になったものだが、今ではこの世の中のすべてのものが単純で、明白であり、それはすべて自分を取り巻く生活条件によって決定されるものであった。あのころの彼にとって必要であり大切であったのは、自然との交感であり、また自分よりさきに生きて思索し感得した人びと(哲学者や詩人)たちとの魂の交流であったが、今は人間社会の制度や友人たちとの交際こそが必要であり大切なことであった。
トルストイ/木村浩訳「復活 上巻」(新潮文庫)P98-99

所詮、後天は先天を駆逐することなどできない。
そして、音楽は良心を喚起する。また、慈しみを刺激する。

・プロコフィエフ:チェロと管弦楽のための交響的協奏曲ホ短調作品125(1957.4.14-15録音)
・ラフマニノフ:ヴォカリーズ作品34-14(ロストロポーヴィチ編曲)(1957.4.26-27録音)
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)
サー・マルコム・サージェント指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
アレクサンドル・デデューキン(ピアノ)

第1楽章アンダンテから旋律が豊かだ。
こういうとっつきやすさがあるのに、プロコフィエフの音楽がいかにも晦渋に聴こえるのは、作曲者の心の真実を投影するからかどうなのか。間違いなく言えることは、ロストロポーヴィチの優れたチェロ独奏があっての作品だということ(後年の小澤征爾との協演盤も素晴らしいが、若きロストロポーヴィチの気概満ちるこの演奏はより鮮烈だ)。美しいのは、やはり第2楽章アレグロ・ジュスト。激動と平穏が錯綜する楽想が、聴く者の心を揺さぶる。あるいは、カデンツァの喜び!

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