
第1幕第2場「雪片のワルツ」舞台裏合唱にリベラを起用したことで、この録音は永遠の価値を持つ(合唱パートのみ別録りだが)。
夢と現の錯綜。この可憐なバレエ音楽が、最晩年に書かれている意味、意義の大きさ。作曲直前の、アメリカ楽旅中の新しい発見の数々と満ち足りた幸福。アメリカでは彼の音楽はとことん愛された。
米国では新しい発見にことかかない。冷水と温水がすぐ出る洗面台や専用のお風呂、高層ビルと黒人の多さに驚く。
~伊藤恵子「作曲家◎人と作品シリーズ チャイコフスキー」(音楽之友社)P170
チャイコフスキーの衝撃を思う。しかし、一方で、新聞の遠慮のない記事や日記を書く暇がないほどの多忙さにホームシックにかかり、彼は精神の弱さを露呈する。
すでにベルリンで愛する甥ヴラジーミルとの別れを悲しみ〈君に会い、君の声をききたい〉(1891年3月20日)、君がここに現れるならなにでもするのにと訴え、車中でかなりのワインを飲んでいた。もちろん米国でも酒を手放せず、モスクワのユルゲンソンにヴォトカを頼んでいる。一時は《ヨランタ》創作も考えたが、疲れでなにもできない。
~同上書P171
そんな状況の中に生み出されたのが、バレエ音楽「くるみ割り人形」である。
喜びの中に潜む苦悩、ここにはあらゆる人間感情と大自然の摂理の絶対が刻印される。
・チャイコフスキー:バレエ音楽「くるみ割り人形」作品71
リベラ(合唱)
サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2009.12.29-31Live&2010.5録音)
高機能の楽団の放つ音楽は流線形。
チャイコフスキーの音楽は、全知全霊の最高峰。旋律は喜びに弾け、どの瞬間も一貫して美しい。小序曲から何と可憐なことか。全編「抜けた、澄み切った美しさ」はどこから来るのか?
彼は友好的なので、とても快適に仕事ができます。遠くからやってきた先生なのではなく、彼も団員の一人なのです。時折、誰かが馴れ馴れしく敬意を失った態度をしても、サイモンは必ず賢明な中庸の道を見つけだすので、我々はいつも彼を尊敬しているのです。
(ベルリン・フィル理事ペーター・リーゲルバウアー)
~ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P398
音楽に、ラトルの在り方が反映されているようだ。
はみ出さず、丁寧に、また端正に、隅から隅まで思いのこもった演奏だ。
第2幕は一層興に乗る。冒頭「魔法の城」の希望の色彩。クライマックスはやはり終盤、「花のワルツ」(縦横にテンポを揺らし、時にタメを作って音楽を生き生きとさせる)からパ・ド・ドゥ(王子と金平糖の精の踊り)、終幕ワルツとアポテオーズという流れ。圧巻である。
パ・ド・ドゥ冒頭アダージョの絶唱に胸が締め付けられる。
ラトルが好んで引用するカラヤンの言葉がある。「鳥が、生まれつき、いかに囀るかは重要ではありません。経験を積んだあとに、いかに囀るかが重要なのです」。
~同上書P418
持って生まれた才能をいかに使うか。
宝物を生かせと、カラヤンもラトルも言う。