アシュケナージ&プレヴィンのプロコフィエフ/ピアノ協奏曲第2番を聴いて思ふ

prokofiev_concertos_ashkenazy_previn228人間の感覚は進化する。否、というより常に新しいものを受容するだけの許容量を誰しも本当は持っているに違いない。しかしながら、多くの場合、過去の方法にとらわれる。いわゆる「常識」、あるいは「思い込み」というやつだ。
セルゲイ・プロコフィエフを支持するモダニスト・グループの批評家カラトゥイギンは、1913年の第2協奏曲初演の後、次のように書いた。

私は確信している。10年後、聴衆はこの若い作曲家の天才にふさわしい万雷の拍手で、昨日の嘲笑のつぐないをしたくなるだろう。
「作曲家別名曲解説ライブラリー20プロコフィエフ」(音楽之友社)P115

今ではそれほど前衛的には聴こえない作品であっても、100年前の人々にするととんでもない騒音に聴こえたことだろう。

こんな音楽では気が狂ってしまう、いったいわれわれをからかう気か。

こんな未来派の音楽なんか、悪魔にくれてやれ。われわれは楽しみを求めてきたんだ。家の猫だってこんな音楽はできるぞ。
~同上書P115

よくぞここまで書いたものである。ちなみに、プロコフィエフはロシア革命を逃れ、1918年に日本を訪問した際、東京で2回、横浜で1回のコンサートを開催しているが、自伝での作曲者の回想には、日本人の奥ゆかしさというか、お行儀良さが上手に報告されており、真に興味深い(会場に閑古鳥が鳴いていたことがミソ)。

日本人はヨーロッパの音楽についてあまり理解できていなかったが、とても静かに注意深く聴き、技巧的に難しいパッセージには拍手した。しかし聴衆の数が少なかったので、ほんのわずかな日本円しか手にすることができなかった。
田代薫訳「プロコフィエフ自伝/随想集」(音楽之友社)P81

プロコフィエフ:
・ピアノ協奏曲第2番ト短調作品16
・ピアノ協奏曲第3番ハ長調作品26
ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ)
アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団(1974-75録音)

第2協奏曲第1楽章アンダンティーノの疾走する悲しみは、青年プロコフィエフの内面吐露。ピアノが咆え、唸るシーンに釘付け。特に、後半の、アルペッジョ音型が反復される技巧的なカデンツァ部分はプロコフィエフならでは。アシュケナージのピアノは一切の踏み外しのない分面白みに欠けるが、実に安心して聴ける。
また、第2楽章スケルツォの勢いと迫真!!
そして、第3楽章間奏曲の重戦車の如くの管弦楽の伴奏とピアノの可憐な細かい動きに悪魔的嘲笑を思う。なるほど、当時の聴衆は確かに気が狂いそうになったことだろう。
さらに、終楽章アレグロ・テンペストーソの、ゆるやかなピアノの旋律にロシア正教的祈りの極致。ここでもアシュケナージのピアノは優しい。

何よりプレヴィン&ロンドン響との見事な協奏。しかも、プレヴィンの指揮は緊張と弛緩のバランスに長けており、この難解な音楽が難しく聴こえないところが素晴らしい。100年前の人々がこれを聴いていたらら感想は変わったのだろうか。

 

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