ベロフ ドビュッシー 前奏曲集第1巻ほか(1994.9 & 1995.9録音)

クロード・ドビュッシーの革新とは、大自然の、大宇宙の法則に倣うことだった。

身のまわりにある無数の自然のざわめきを聞こうともしないのですね。実に多様な自然の音楽、聞く気さえあればたっぷり自然が与えてくれる音楽、そういうものには気を配ることはしないのですね。自然の音楽はわれわれをすっぽりと包みこんでいます。そしてわれわれは今まで、そういう言葉に気づかずに過ごしてきたのです。私にいわせれば、そこに新しい方法があります。けれども、私もようやくかすかにそれを聞き分けたという程度なのです。残されている仕事、これは無限です。そして、それを実現するような人がいたら・・・これはえらい人ですね。
「今日の音楽、あすの音楽」
(「コメディア」1909年11月4日)
杉本秀太郎訳「音楽のために ドビュッシー評論集」(白水社)P282

ドビュッシーは、結局同じことを繰り返す(と彼が分析する)ワーグナーの音楽に否定的だった。真理は不変だが、世界は常に変転の中にあり、我々人間もいつどんなときも進歩、向上、発展の中にいなければならないと彼は言ったのである。

ちなみに、マルグリット・ロンは、ちょうどこの批評が書かれた頃に作曲された「前奏曲集」についてかく語った。

この時期から戦争直前まで、ドビュッシーの作品は油がのり、円熟し、純化されていきます。けんらんさにおいても、《価値》の堅実さにおいても、また、繊細で、軽快な、そしてあいかわらず辛辣なリズムにおいても。ドビュッシーの芸術は円熟しました。独特の完成度に達したのです。『ピアノのための12の前奏曲集』の2冊では完璧そのものといえるでしょう。シュアレスは「ベートーヴェンの最後の3つのソナタ以来、音楽にあらわれた」ピアノのためのもっとも美しい曲の中に『沈める寺』『謁見のテラス』を入れていますが、これらの作品では光が満ちあふれ、作曲者の信者のようなひたむきな自然への渇仰によって、後光がさしているようです。このように彼はどんな精神の表われも捉え、それを真の音楽詩にかえたのです。
「前奏曲集」
マルグリット・ロン著/室淳介訳「新版ドビュッシーとピアノ曲」(音楽之友社)P84

「自然への渇仰」という高尚な(?)言葉に膝を打つ。ドビュッシーは、まさに「前奏曲集」によって本性に立ち返り、そこに真の革新を試みたのである。

ドビュッシー:
・前奏曲集第1巻(1909-10)
・スケッチブックから(1903)
・コンクールの小品(1904)
・ハイドンをたたえて(1909)
・かわいい黒人の子供(1909)
・子供の領分(1906-08)
ミシェル・ベロフ(ピアノ)(1994.9.17-22, 1995.9.16-26録音)

円熟のミシェル・ベロフのドビュッシー全集からの1枚は、無垢で純真な「前奏曲集」をメインにしたもの。何より第10曲「沈める寺」の、沈みゆく大伽藍を描き切る脱力の表現力。黄昏と、一方で絶えぬ生命力を露わにするコントラストは逸品。あるいは、「子供の領分」における素直かつ可憐な表現こそベロフの真骨頂か。第4曲「雪が踊っている」の煌めきに僕は胸が躍り、第5曲「小さな羊飼い」の静寂に心の安寧を思う。愛娘クロード・エンマに捧げられたこの曲集の、どこをどう切り取っても愛に溢れたベロフの演奏は実に喜びに満ちる。

出し抜けに いや おふざけなのか
お嬢様は望まれた たって聞きたい
少しでもいい 姿を現すその響き
わたくしの数ある笛も 木の笛の音が

「アルバムの一葉」
渡辺守章訳「マラルメ詩集」(岩波文庫)P110

人気ブログランキング


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む