アバド指揮ベルリン・フィル マーラー 交響曲第8番(1994.2Live)

宇宙開闢の音物語。
マーラーの交響曲第8番は、モーツァルトの「魔笛」同様、人類の覚醒を促す意図を持った作品だと想像するが、「魔笛」が完璧に摂理に則った宇宙視点の聖なる音楽である一方、第8番はあくまで俗世の、人間視点の音楽だ。
その分、音楽は肉付き良く、人々の官能を刺激するが、浅いと言えば浅い。

ちょうど私の《第8》が完成したところです。—これは今まで作曲した内で最大のものです。また内容も形式もあまりに独特のもので、ちょっとそれについて手紙に記すことができないほどです。—ご想像いただきたいが、宇宙が音を立てて、鳴り響き始めるのです。もはや人間の声ではありません。公転する惑星の、太陽の、声なのです。—詳細はお会いして直に。
(1906年8月18日郵便消印ヴィレム・メンゲルベルク宛)
ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P326

ただし、決して虚仮脅しではない。少なくとも名演奏に触れることができれば、身体の芯から感動を喚起する力を持つ傑作だと断言できる。

クラウディオ・アバドの指揮するマーラーには不思議な透明さと官能美がいつも同居する。極めて精緻に練られた音楽は、実に密度濃く、どの瞬間も見事に神々しい(特に晩年に近づくほどそのことは顕著になる)。ベルリン・フィルにおけるアバドの時代は「暫定期間」として揶揄された見方が大勢を占めるが、彼が残した音楽的功績(レパートリーを広げたことと、何より協調的姿勢がもたらす安寧の音調)は非常に大きいと僕は思う。

アバドの権威は、まさに音楽を作りあげる場で発揮されます。彼には、共に演奏するオーケストラの心理について、自然な勘が働くのです。プレッシャーをかけたり、急がせたりすることなく、オーケストラを成長させていくのです。強いるようなことはせず、まるでそれを初めて聴くかのように、一緒に作品に近づいていくことができる。楽団員一人ひとりの責任感や信念から、全員をまとめる集中力が生まれます。
(当時の支配人ウルリヒ・エックハルト談)
ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P356-357

そこにあったのはオーケストラに対する全面的な「信頼」と自身への絶対的な「自信」だ。

・マーラー:交響曲第8番変ホ長調
シェリル・ステューダー(ソプラノ1、贖罪の女)
シルヴィア・マクネアー(ソプラノ2、罪の女)
アンドレア・ロスト(ソプラノ、栄光の聖母)
アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(アルト/コントラルト1、サマリアの女)
ローゼマリー・ラング(アルト2、エジプトのマリア)
ペーター・ザイフェルト(テノール、マリア崇拝の博士)
ブリン・ターフェル(バリトン、法悦の教父)
ヤン=ヘンドリク・ローテリング(バス、黙想の教父)
ベルリン放送合唱団
プラハ・フィルハーモニー合唱団
テルツ少年合唱団
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1994.2Live)

冒頭から落ち着きのある、そして香気溢れる第1部。堂々たる音調で歌われる賛歌の光と翳。ライヴならではのエネルギーの発露。また、第2部では揺るぎない自信の下、最後に神秘の合唱が、此岸が幻であることを歌う。

すべて移ろい過ぎゆく無常のものは、ただ仮の幻影に過ぎない。

最晩年のマーラーも目覚めよと訴えるのだ。
ここでのアバドの棒は、無心であり、純粋無垢。音楽だけがただただ高揚し、世界に降り注ぐ様が実に美しい。

彼が本領を発揮するのは、本番のコンサートでだけである。本番の時に初めて彼は、カリスマ性を現わす。(・・・)本番では、貴族的な振舞いは彼に無縁のものとなる。左手だけで表現を指示しながら、曲をリードし、そのうちに音楽の中に消えてしまうように見える。
(2001年3月1日「ツァイト」誌クラウス・シュパーン)
~同上書P357-358

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