地球は怒っている

karajan_zarathustra.jpg先日のミャンマーでのサイクロン被害に続き中国四川省における大地震。被害は今後も拡大すると見られ、何万人という死者が出る勢いだ。地方都市の急成長で建物の耐震構造が追いつかなかったということだが、自然の警告ともとれる。急激な成長というのは一方で歪を生み、必ずどこかでしっぺ返しが来るようになっているもので、ギョーザ問題、チベット問題などなどどこかで無理があるのだろう。モティベーションを明確にもち、確かに成長を遂げていくことは重要だが、「意図」せず、あくまで「自然」の流れに沿った形であることが理想である。

 

台風2号の影響か3月並みの寒さだという。長袖のタートルネックを着ているだけでは身の震えが止まらず暖房を入れたくなるほどの気温。とても5月中旬とは思えない。因果応報じゃないが、人間の意思が巡り巡って昨今の気象状況や自然現象につながっているのではないかと思うほどだ。地球が怒っているのか・・・。

ドビュッシーの唯一のオペラ「ペレアスとメリザンド」が初演された際、周辺からは賛否両論が巻き起こった。今でこそ名作の一つとして数えられている歌劇であるが、全体的に抑揚がなく、まったりふわふわとした雰囲気で舞台が進んでいく様子はひょっとすると当時の人々にはなかなか受け容れがたいものだったかもしれない。交響詩「魔法使いの弟子」で有名なポール・デュカスは「ペレアス」容認派で、リヒャルト・シュトラウスはどちらかというとこの作品をこき下ろした方であったという。シュトラウスは「脚本と音楽が渾然としすぎてかえって中途半端になっている。音楽作品は音楽が主でなければならない」というようなニュアンスのことを語っている。僕が基本的にドイツ音楽を好むのはシュトラウスの言うとおり、音楽の構造が明確でどっしりと安定感のある形式を主とするからだろう。彼の残した交響詩やオペラも大変好みで、20世紀の前半に活躍した現代作曲家だとは思えないほどその作品の一つ一つはとてもロマンティックで重みやうねりがある。

ご多聞にもれず、僕がこの作曲家の音楽を初めて耳にしたのはスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」によってである(今年で公開からちょうど40年であるが、SF映画のさきがけとなったこの作品は21世紀の今の時代にも芸術として十分に通用する)。宇宙の生成を思い起こすような静かな低い音の波間から突如響くトランペットの荘重な調べ、いわゆる「自然の主題」は一度聴いたら忘れられない音楽で、おそらく誰もがどこかのシーンで聴いたことのあるメロディであろう。

リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」作品30
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

フリードリヒ・ニーチェが1885年に発表した同名の哲学書に想を得て生み出された傑作交響詩。インスピレーションを得てはいるというものの、哲学的な内容を音化したものではなく、あくまでニーチェの著作から影響を受けたシュトラウス自身の「言葉」または「想い」として聴くべき作品である。それゆえニーチェの思想を理解せずとも音楽の素晴らしさを十分に受容できる。純粋に音楽に耳を傾けることで、宇宙、そして人間の心というものが感じれるのだ。

30分強のこの演奏を聴きながら、そういえば作曲家の自作自演盤をもっていることを思い出した。10年以上前に発売され未開封のまましまってあった音盤。1944年、ちょうど第2次大戦中のウィーン・フィルとの録音。リヒャルト・シュトラウスの指揮そのものを初めて聴くのだが、思ったほど軽くなく、音のうねりを重厚に表現しているところが素晴らしい。録音が良ければカラヤン以上の名演奏だ。

リヒャルト・シュトラウス自作自演集Ⅲ
リヒャルト・シュトラウス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1944年)

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