
激しい感情移入。爆発力と沈潜力の対比、というよりその間をなす自然な流れこそオレグ・カエターニの創造する音楽の特長だろう。体制に表上は従順ながら内心では一体何思っていたのか、謎のドミトリー・ショスタコーヴィチの音楽を、いわばその表裏を明確に分けず、表も裏もないのだと解釈するのがカエターニの方法だ。
オレグ・カエターニの出自は高貴な筋らしい。
一方、幼少の頃から家庭環境は複雑だったのかもしれない。
彼の作る音楽も、揺るがない土台に柔軟な外装と堅牢な内側を秘める不思議な音調を持つ。その意味で、ショスタコーヴィチにうってつけ。水を得た魚のように、カエターニの指揮の前で楽団員が全力で音楽に向き合う様子が手に取るようにわかり興味深い。
交響曲第6番ロ短調作品54が見事だ。
第1楽章のラルゴには、それ以前の、あるいはそれ以後のショスタコーヴィチの旋律が木魂する。過去と未来をつなぐ奧妙な音楽に僕は心よときめくのである。沈思黙考、音楽に対する指揮者の思い入れはことのほか強い。この長大な音楽こそショスタコーヴィチの本懐だろう。
第2楽章アレグロの、風刺画的諧謔性こそショスタコーヴィチが生涯をかけて追究したものであり、カエターニの演奏には、並々ならぬ確信的ユーモア(?)が潜む。
私はいわゆる「真面目な」音楽に笑いの正当な権利を取り戻したいと思う。私は自分の交響曲の演奏会で聴衆が大声で笑ってくれたなら、当惑するどころか嬉しくなるだろう。
聴衆が楽しくないとしたら、話は別である。この場合はもちろん、作曲家に非がある。作曲家が狙った「笑い」は、実際には真の人間の感情ではなかったのである。
(「労働者と演劇」誌1934年第36号。「自伝」所収P50)
~「ショスタコーヴィチ大研究」(春秋社)P108
そして、まさに聴衆が大声で笑い声をあげそうな終楽章プレストでは、カエターニが気炎を上げて音楽に邁進する様が見えるよう。何より終演後の聴衆の歓呼の喝采がすべてを物語る。
これは厳しく辛らつな響きの緩徐楽章に始まり、引き続き、テンポを一段と早めていく2つのスケルツォ楽章へと直進する、交響曲としては異例の形式と内容であった。第22回の革命記念日前夜、1939年11月5日に行われた初演を聞いて、不満を表明する批評が続出した。ショスタコーヴィチは不安を隠さず、「作曲家たちは僕の交響曲に憤慨している。どうしようか。僕は明らかに当て損なったようだ。このことを気にしないようにはしているけれど、やはり針のむしろに座っている気持ちだ」とモスクワのシェバリーンに書き送った。しかし、1939年9月1日にはヒトラーの軍隊がポーランドに侵攻を開始して、世界の目は戦争に向かっていたし、そして彼自身、翌1940年11月に初演された《ピアノ五重奏曲》で圧倒的な成功を得て、1941年3月16日には、この作品が最高の栄誉であるスターリン賞第1位を授与され、どうやら彼の不安は杞憂に終わった。
~同上書P58
1930年代のソビエト連邦に住む人々がいかに自由というものを失い、そもそも戦争以前に生と死の狭間にいつも置かれていただろうことを知るにつけただならぬ戦慄を覚える。そこには言語を絶する不安と憂慮があったことは想像に難くない。そんな中、ショスタコーヴィチの創造者としての挑戦は、いつもギリギリの革新を孕む。だからこそ感動的でまた尊いのだ。