大体「パルジファル」という作品そのものが、浮世を離れた作者の胸のうちで芽生え、徐々に育まれたのであった。あけっぴろげな感覚と自由な心の持主なら、ペテンと欺瞞と偽善を通じて組織化され、合法化された殺人と収奪の世界を一生目の当たりに見ているうちに、時には身の毛もよだつようなむかつきを覚えて、この世を見捨てたくなるのが当然ではあるまいか? そんなとき彼のまなかいに浮かぶのはなんだろう? おそらく死の深淵である場合が多いだろう。しかし他と違った使命を与えられ、そのために運命から特別の扱いを受ける人間の前には、浮世の真実の写し絵そのものが、救済の予兆を秘めたこの世の内奥の相を現わすだろう。そしてこの正夢にも似た写し絵のために欺瞞に満ちた現実世界を忘れていられること、—苦悩にまみれた誠実を貫いてこの世の悲惨を認識した当人は、まさしくこの一事を自らの誠実に与えられた褒美と見なすのである。
(ヴェネツィア、1882年11月1日)
「1882年の舞台神聖祝祭劇」
~三光長治監修「ワーグナー著作集5 宗教と芸術」(第三文明社)P366-367
明らかにワーグナーには真実が見えていたように思う。
ニーチェがどれほどワーグナーを貶めようとも、少なくとも彼の言説は真理に基づくものに思えてならない。多少過激に映るのは時代のせいだろう。今ならもっと理解を得られたはずだ。
第1幕、老兵グルネマンツの語りの意味深さ。
古い録音から浮かび上がる、ティトゥレル王に聖杯と聖槍が委ねられる逸話の語られるシーンの崇高さ。
悪役を歌わせたら天下一品のゴットロープ・フリックのグルネマンツの官能、そして、ルドルフ・ケンペの呼吸の深い、堂々たる管弦楽のドライヴに心が動く。役になり切るフリックの、一つ一つの言葉の重みはいかばかりか。もう少し音が良ければ、頻繁に取り出すことになる録音であったろうに。
たとえ抜粋であろうと、「パルジファル」はどこからどう耳にしても気づきを与えてくれる聖なる楽劇だ。文字通りここには「救済の予兆」がある。(彼は自らを浮世を離れたというが)死の数ヶ月前に、まるで解脱したかのように語ったワーグナーの言葉は重い。
それにしてもフリックの歌は素晴らしい。