ステファヌ・マラルメに触発される。
晩年のマラルメは、詩を「光」に、音楽を「闇」に譬えていた。従って、分節言語を欠く音楽には、分節言語のもつ輝きは欠けているのだが、ワーグナー楽劇は、この二つの相矛盾する表象を合体する離れ業をやってのけ、「現代の〈音楽〉という太陽の立ち昇る光景」を前に、詩人の存在理由そのものが脅かされていると、マラルメは考えたのだ。
~渡辺守章訳「マラルメ詩集」(岩波文庫)P412
渡辺守章氏による註解に納得する。
詩と音楽の相関、逆もまた真なり。
音絶えてすでに 不吉なる沈黙の 縞目模様は
拡げている 一筋 ではなく襞を 調度の上に
太柱 己が重みに耐えかねて 崩れんとならば
奈落へと 転落させん 欠落せる記憶とともに。
「頌」
~同上書P138
リヒャルト・ワーグナーへのオマージュ。
「襞」という言葉の輝度。
ワーグナーを最後に到来した神だと言ったマラルメのこの感性!!!
中でも「パルジファル」への感嘆!!!
果たしてこのことがどれほどの人たちの心に届くのか!!!
マラルメの「ベルギーの友たちの想い出」にインスパイアされ、ブーレーズは「プリ・スロン・プリ」を構成した。ブーレーズは、マラルメの詩の持つ調子を音で表現しようと考え、何年もの年月をかけて管弦楽のための即興曲を書き上げたのだという。ブーレーズはワーグナーという神に挑戦しようとしたのだろうか?
冷たい情熱に支配される「パルジファル」の覚醒。
「不吉なる沈黙」どころか、ブーレーズの表現する「パルジファル」は実に幸福感に満ちる。巨大な音塊が、精密なる音の綴れ織りの如く滔々と流れる様に、悠久というより「いまここ」を想像させる美しさ。
第1幕前奏曲の何とリアルな輪郭よ。
ブーレーズは、まるで無神論者のように「パルジファル」を現実的に捉えるようだ。第1幕、フランツ・クラスのグルネマンツの語りが光る。
汝らは聖堂に仕える者の一人として
罪人には見つけられない道を歩むことが許されているが、
知ってのとおり、汚れのないものしか
仲間になることは許されていない。
同志たちは聖杯の騎士として徳を高め善を尽し、
聖杯グラールの奇跡の力を強めなければならないからだ。
だがお前たちが訊ねるクリングゾルには、
彼がどんなに骨折っても、仲間になることは許されなかった。
そこで彼は、向こうの谷に移り住んだのだ。
そこは一面鬱蒼とした荒地だった。
彼がそこでどのような罪を犯したか私にはわからない。
彼は罪を償おうとし、潔白になろうとした。
だが自身の罪深い欲求を抑えられなかったのだ。
~井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集2―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P298-299
第1幕の、物語の重要な背景が語られるシーンの何気ない圧巻。
まるで、若きアナキン・スカイウォーカーがフォースのダークサイドに堕ちるときの心境を思わせる。ここでのブーレーズの紡ぎ出す音楽のキレは心底素晴らしい。
マラルメが恐れた詩人の存在理由への脅威が、例えばこういうところに現われるのだろうか。