ホグウッド指揮エンシェント室内管のベートーヴェン第九(1988.9録音)を聴いて思ふ

どんな文献も、どんな言葉も、結局はそれを書いた人の主観でしかない。世界には客観など本当はないのかもしれない。すべては思考や感情に塗りつぶされた幻。事実は、ただそこにそれがあるというだけだ。

クリストファー・ホグウッドの「第九」を聴いて思った。
ピリオド楽器によるベートーヴェン演奏にはこれまで一切のシンパシーを感じなかったはずなのに、久しぶりに聴いて、僕はとても良いと思った。人間の感覚など実に当てにならない。

初演当初、この作品は散々こき落された。

ベートーヴェンの《第九》はキッカリ1時間と5分かかる。それはまさに楽隊の筋肉と肺臓と、・・・そして聴衆の忍耐を厳しい試練のさなかに置いた恐怖の時であった。終楽章のコーラスは場ちがいだ。それがシンフォニーとどう関係するのかまるでわからない。
(「ハーモニコン」ロンドン、1825年4月)
「音楽の手帖 ベートーヴェン」(青土社)~P145

終楽章が異質であることは確かだ。それまでなかったもの、それも革新的なものを耳にしたとき、人は拒絶感をまず抱くのだろう。

おそらくアダージョがいちばん美しい。だが他の楽章、とくに終楽章は奇妙なハーモニーの理解を越えた連結としか思えない。ベートーヴェンはこれを作曲した時、つんぼだったのだ・・・。つまり、これまで彼を成功の天国へと導いたコンパスなしで、ハーモニーの大洋を行った巨人の創造物がこれなのであり、盲目の画家がでたらめにカンヴァスにぬりたくったようなものだ。私は衷心から申し上げるが、美の存在しないこの作品を研究するより、美に満ち満ちた他の多くの曲をお聞きになるがよい。
(「デーリー・アトラス」ボストン、1853年2月)
~同上書P145

初演から30年後のボストンでもやはり終楽章が理解の範囲を超えていまっているようだ。世間一般だけでない、専門家ですら多くは絶賛しなかったのだから実に興味深い。例えば、チャイコフスキー。彼は「第九」に限らず、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏群を否定する。

私はベートーヴェンのいわゆる「中期」(の作品)が好きだ。
また、ときには初期の作品にも惹かれる。
しかし、後期だけはそうではない。
むしろ憎悪の感情を抱いていると言ってよいだろう。ことに、あの最晩年の弦楽四重奏曲を。
それらには才気がある。だが、それだけだ。
あとはすべて混沌のままで、その上に濃い霧が立ちこめ、
この世界のエホバの霊がただようのだ。
ピョートル・イリイッチ・チャイコフスキー(小林利之訳)
~同上書P143

才気ありながら混沌という矛盾。あの崇高な後期弦楽四重奏曲を受け入れられないとは?!

ベートーヴェン:
・劇音楽「エグモント」序曲作品84
・交響曲第9番ニ短調作品125
アーリーン・オジェー(ソプラノ)
キャサリン・ロビン(コントラルト)
アンソニー・ロルフ・ジョンソン(テノール)
グレゴリー・ラインハルト(バス)
ロンドン交響合唱団
クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(1988.9録音)

学究的アプローチはともすると左脳に偏る。ティンパニの怒号。極端なまでのデュナーミク。2年前に聴いた上岡敏之指揮読響の「第九」に勝るとも劣らぬ人工性!
ピリオド解釈の「意味」がようやくわかってきたようだ。

 

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