ブログを書いている最中、何かのはずみでパソコンの電源が落ち、せっかく書いた原稿が水の泡と化すことが稀にある。そういうときのショックといったら言葉で言い表せないほど。もちろん同じようには書けない。音楽の演奏同様、文章も一種の時間芸術のようなものだから、二度と同じ演奏ができないように全く同じ文章は書けない。
そういうことがあってから少なくともこのブログに関しては、一度「Word」に下書きし、保存してからコピー&ペーストをするという手順でアップしている。多少面倒臭さはあるものの慣れてしまえば大した労力でなし、何より最悪の事態を免れることが良い。
所用で御茶ノ水に出掛けたついでに久しぶりに神保町の「三省堂書店」に寄り、明日の講義の準備のための資料となるような書籍にざっと目を通し、2階のカフェで小1時間。帰路、神保町の駅に向かう途中「古本屋街」に吸い込まれそうになったが、時間がないためそこは我慢して真っ直ぐ帰宅。絶版になっている岩波文庫の「タゴール詩集」が欲しいのだ。
ツェムリンスキー:
叙情交響曲作品18~管弦楽、ソプラノとバリトンのためのラビンドラナート・タゴールの詩による7つの歌
ユリア・ヴァラディ(ソプラノ)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
ロリン・マゼール指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
このいかにも後期ロマン派的巨大建造物、退廃的な響きがたまらない。マーラーともシェーンベルクとも違う、独特の「何か」がこの音楽の内に潜む。外観はまったくマーラーの「大地の歌」の真似(というより参考にしている)。1922年~23年にかけて作曲されているが、完成後フルトヴェングラーに意見を仰ぐため早速ベルリンに総譜を郵送。その後、ベルリンから返送された際に、待てども待てども郵便物が届かなかった。どうやら紛失してしまったようなのである。ツェムリンスキーは失望と怒りの混じった感情をどこにぶつけて良いかわからない、そういう状態に陥ったらしい(その気持ちよくわかります)。結局数ヶ月後に「物」は発見され、事なきを得るのだが、この名作が永遠に葬り去られることがなかったというだけでもよかったのでは・・・。
ところで、ツェムリンスキーが引用したタゴールの詩は「The Gardner(園丁)」という詩集から。ここでは「地上の園を愛する者の大地と人間への恋愛」が歌われている。
第1楽章
私は不安だ。私は遥かなるものにこがれている。
私の魂は薄暗い遠方の裳裾に触れたいと願って流浪する。・・・
第4楽章
話してください、いとしい方!あなたの歌った歌のことばで告げてください。
夜は暗いのです。星は雲の中に失われ、風は木の葉の間からため息をついています。・・・
(対訳:石田一志)
ヴァラディ&フィッシャー=ディースカウ夫妻の掛け合いがさながら「愛の交流」。そういえば思い出した。ちょうど20年前、サントリーホールでサヴァリッシュ指揮NHK交響楽団のマーラーを聴いた。
1989年4月28日(金)19:00開演
『N響マーラー・スペシャル』
・マーラー:さすらう若人の歌
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
・マーラー:交響曲第4番ト長調
ユリア・ヴァラディ(ソプラノ)
ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮NHK交響楽団
アンコールがあったかどうかは記憶の彼方。でも、この可憐なる2曲については脳裏に焼きついていまだに離れない。
おはようございます。
ツェムリンスキーの「抒情交響曲」は「大地の歌」と対になる名曲ですね(ここにショスタコの交響曲第14番「死者の歌」も入れて3兄弟としたいところです 笑)。
ただし、ツェムリンスキーが引用したタゴールの詩「The Gardner(園丁)」は、元々ベンガル語で書かれたものを作者自身英訳した後、ドイツ語に訳したものを使用していますよね。それを我々は日本語訳で理解しているわけで、何層かのフィルターを通して、「宇宙の霊と人間の霊とのウパニシャッド的な調和の下での男女の愛」や「愛する人へのうるわしく優しい別れへの願望」(柴田南雄 続私の名曲探訪 音楽之友社より)を眺めているってことではありますね。
ちなみにF=ディースカウは、上記3曲とも超名唱の録音を残していますが、こんな離れ業できる歌手って、ちょっと思い付かないですよね。
1989年の『N響マーラー・スペシャル』で、F=ディースカウとユリア・ヴァラディの実演を聴かれた御体験、羨ましい限りです。私もF=ディースカウの演奏会は何回か聴いていますが、この「さすらう若人の歌」、聴いてみたかったです。
マーラー「さすらう若人の歌」「交響曲第4番」「大地の歌」も、ショスタコ「死者の歌」も、楽器の編成や使用方法などに工夫が多く、真の理解には実演体験が欠かせないと思っています。「抒情交響曲」の実演体験はないので、この曲も機会があれば行ってみたいです、それだけ聴き込み研究する価値のある曲だと思いますので・・・。
少しマーラー交響曲第4番の蘊蓄話を・・・。御存じかも知れませんが、この曲の第2楽章では、コンマスは2挺のヴァイオリンを弾き分けるように書かれています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC4%E7%95%AA_(%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC)
総奏用通常調弦(低弦からソ・レ・ラ・ミ)と、ソロ用の2度高い調弦(低弦からラ・ミ・シ・ファ#)の2挺。このソロ用の2度高い調弦のヴァイオリンっていうのは、絶対音感がある人が弾くと、物凄く気持ち悪いそうです(私は絶対音感はありませんが、それでも遊びでこの調弦で弾けるところを弾くと気持ち悪いです)。確かに作曲者の狙い通り「死神効果」があります(笑)。
この変則調弦、モーツァルトの名曲「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E5%8D%94%E5%A5%8F%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)
の独奏ヴィオラ(半音高く調弦)といった先例がありますが、この曲の独奏ヴィオラも、部分部分を遊びで弾いてみると、ちょっと音程に慣れるまでに時間がかかります。
>雅之様
おはようございます。
そうですね、ショスタコの14番も同種の曲ですよね。おっしゃるとおり3兄弟です。
タゴールの詩についても、先日の「マタイ」の話題でも触れたように何層ものフィルターがかかっているのは事実です。外国文学を真に理解するのは難しいですね。それにしてもさすが柴田南雄氏ですね。うまい表現です。
>F=ディースカウは、上記3曲とも超名唱の録音を残していますが、こんな離れ業できる歌手って、ちょっと思い付かないですよね。
確かに!!
>「抒情交響曲」の実演体験はないので、この曲も機会があれば行ってみたいです
僕も実演体験がないので、勉強してみたいと思っています。
マーラーの4番の第2楽章の件については有名ですよね。残念ながら僕は楽器ができないので、頭で理解しているだけなのですが・・・。やっぱり気持ち悪いんですね(笑)。
[…] ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ氏が亡くなった。86歳だったという。 歌曲に決して強いとは言えない僕でも、彼の録音には随分お世話になった。リートに限らずオペラやミサなどの声楽曲の名盤を仕入れると大抵彼の名前がクレジットされていたから自ずと聴く機会も多かった。 僕が初めて彼の歌声を聴いたのは、フルトヴェングラーがフィルハーモニア管弦楽団と録音したマーラーの歌曲集「さすらう若人の歌」においてだった(それも、フラグスタートの歌うワーグナーの楽劇「神々の黄昏」から『ブリュンヒルデの自己犠牲』とカップリングされた東芝エンジェルのアナログ・レコード)。とにかく衝撃だった。繰り返し聴いた。いつの時期からかこのレコードを取り出すときは、どちらかというとワーグナーの方がお目当てということが多くなったが、この「さすらう若人」はいまだに他を圧倒する超名演奏、名歌唱であると信じて疑わない。世間一般でいわれているように理知的でありながら、決して色艶を失わない、僕に言わせれば右左脳のバランスが見事にとれた傑作だと思うのである。もちろんシューベルトやシューマンのリートも後にたくさん聴いた。幾度か実演にも触れた。忘れられないのは89年だったかのサヴァリッシュ指揮N響とのやはり「さすらう若人」。あれは本当に美しい演奏だった。あの時彼は64歳くらいだったわけで、どうもそれ以来時間がストップしてしまっているかのように感じられる(何せ享年86歳のわけだから、立派に天寿を全うされたといって間違いないが、どうもそんな年齢にいっているとは想像できなかったものだから・・・イメージというのは恐ろしいものだ)。 […]