第7交響曲、生命と活動の喜び、情熱的なパッセージを伴って。3楽章制で、フィナーレは〈ヘレニック・ロンド〉
(1918年5月20日付手紙)
~「作曲家別名曲解説ライブラリー18北欧の巨匠」(音楽之友社)P202
元々3つの楽章で構想された交響曲は、最終的に単独楽章の作品として世に問われることになった。これほどの、魂に直接響く交響曲が他にあろうか。漆黒の闇から立ち上がる浪漫の旋律美と官能の音調。ここには「目覚め」があるように僕は思う。
1924年3月2日完成。1924年3月25日初演。
大自然の、大宇宙の静かなるどよめきと、人間の心の共鳴。
来るべき人類の覚醒のために書かれた聖なる交響曲と言っても言い過ぎではない。
ベルグルンドの指揮の自然さにいつも僕は感動する。
後のヘルシンキ・フィルとのもの、あるいは、ヨーロッパ室内管との録音同様、若きパーヴォ・ベルグルンドの基本解釈は何ら変わりない。人間臭さを排除して、シベリウスの高貴なる音楽に尊敬をもって対峙する様が手に取るようにわかる名演奏。
音楽は終始うねり、ときに爆発するも決してうるさくならず、沈黙の如くの静寂の音に、ボーンマス響の各楽員たちの心のこもった精密な祈りの念が伝わるのである。
僕は思わず高橋悠治をひもといた。
慈悲の音とは
音の慈悲とおなじだろうか
音楽を心の寺とすることができるか
智慧によって静まった心に
音楽は顕れるだろうか
どこからともなく音は顕れ
どこともしれず消えてゆく
消えてゆく音を追う耳はめざめ
よく気をつけて音を呼びさます手は繊細になる
それもつかのま
つくりだされた音楽のリズムそのものにより
メロディーにより
技術の洗練により
心は眠りこみ
あるいは逸らされる
~高橋悠治「音の静寂 静寂の音」(平凡社)P13-14
高橋悠治のこの言葉に僕は膝を打つ。
まるでそれは、ベルグルンドの生み出すシベリウスの音楽への讃歌のようだ。
そこにあるのは、間違いなく「慈悲の音」だ。
「フィンランディア」が苦悩に満ち、何だかとても哀しい。