朝比奈隆指揮新日本フィル ブルックナー 交響曲第8番ほか(1977.4.15Live)

舞台裏から撮影している時にはわからなかったのだが、朝比奈さんの演奏会の客席には、若い人の姿がとても多いのである。中学生や高校生はもちろんのこと、小学生の姿も見受けられた。年齢層の高いクラシックの聴衆の中にあって、なぜ若者たちが朝比奈さんにかくも魅せられるのか、とても気になった。
会場に来ていた中学生のファンの中には、受験生が何人もいた。彼らに「どうして勉強しないで音楽界に来るの?」とマイクを向けると、異口同音に「頭の疲れがとれるから」だという。彼らにとって、あの長大で、ややもすると退屈でさえあるブルックナーが、“癒しの音楽”になっているのだ。しかも彼らは「朝比奈のブルックナー」でなければ駄目だと言い切る。

木之下晃(写真・文)/岩野裕一(構成)「朝比奈隆 長生きこそ、最高の芸術」(新潮社)P25-26

気持ちはとてもよくわかる。
それくらい朝比奈隆のブルックナーは特別だった。

僕がまだブルックナーに目覚める前の朝比奈隆のブルックナー。その時点で彼のブルックナーはすでに完成形であったことがわかる。しかも、ほぼ未編集の、放送局蔵出しの音源を具に傾聴すると、聴衆の咳払いは当然のこと、譜面をめくる紙の擦れる音や指揮者の唸り声までもがリアルに耳にでき、感動を一層喚起される。

・ハイドン:序曲に長調Hob.Ia:7
・ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(ハース版)
朝比奈隆指揮新日本フィルハーモニー交響楽団(1977.4.15Live)

東京文化会館での第48回定期演奏会の記録。
当時放送に関わったFM東京のディレクターであった東条碩夫さんによるライナーノーツが、その演奏会がハプニング続きの(ある意味)特別なものであったことを教えてくれる。
中で、最も興味深いのが、第3楽章アダージョのクライマックスでシンバルとトライアングルが使用されていない事実とその理由について。

要するにそれは、意図的なものでも何でもなく、単なる「軽率な思い違い」だったというのである。練習の際に首席打楽器奏者の山口浩一氏から「トライアングルとシンバルは?」と尋ねられた朝比奈氏は、ちょうど《7番》(当然ハース版である)のことを考えたりしていたので、つい「要らない」と返事をしてしまった。そのため演奏会の当日は、2人の打楽器奏者が来ていない。そこで氏は「シンバルやトライアングルの力を借りずにダイナミズムでクライマックスを作るのが諸君の腕と気力だ」と気合いをかけ、オーケストラも「よっしゃ」と応じて盛り上げたのだという。演奏の結果は「なにも物が落ちたような感じはしなかったし、批評家や聴衆からもなぜ入れなかったんだという言葉がなかったからそれで済んでしまった」とのこと。
TFMC-0008/9ライナーノーツ

実際まったく違和感なく、むしろ第7番のハース版同様、シンバルやトライアングルはない方がブルックナーの自然体の発露があるようで(少なくとも僕にとって)好ましい。
ちなみに、別の対談で第7番について語る際、話の流れでこの日の事情(だと思う)を語っておられるが、詳細が異なるので、どちらかが記憶の違いであろうと想像する。

私は「疑わしきは罰せず」じゃないが、疑わしいものは、もう打楽器はなるべく入れない方がいいと考えています。あの人の音楽と、特に〈7番〉みたいな音楽とは合わないですからね。シンバルのたぐいのものは合わないから、あの楽譜の注を見るまでもなく、今では結局やめています。
一遍ね、勘違いでとんだことをしでかしたことが・・・。東京交響楽団で〈8番〉をやった時にね、あの曲もアダージョ楽章の同じようなところで、シンバルとトライアングルが入るんです。これは全く私の勘違いなんですけど、最初の練習の時、打楽器奏者が2人座っているので、〈7番〉のつもりになってしまい「あ、シンバルとトライアングルは、もう使わないから、帰ってよろしい」って言ったら、彼ら「ああ、そうですか」って帰っちゃった。「しまった」と直ぐに気がついたんだけれどもう引込みがつかなくなってね(笑)、そのままやったんですよ。
全くなしでね。こっちは、すっかり居直ってね、それで、あそこの転調してトゥッティに入るところ、なにしろ打楽器やめたんだから、オーケストラ自体がきちんとしたアクセントつけないとダメだからと何遍もけいこして、それで押し通してやったんです。やってみると、悪いものじゃなかったですね。

金子建志編/解説「朝比奈隆—交響楽の世界」(早稲田出版)P261-262

この、何ともいえぬ鷹揚さが朝比奈隆の魅力であり、その臨機応変の人間性と、ブルックナーにまつわる愛情とが相まって、驚くべきエネルギーを発する音楽を生み出したのだといえまいか。第1楽章アレグロ・モデラート冒頭から力が入り、東京の聴衆に渾身のブルックナーを聴かせようとする姿勢が堪らない。
そして、楽章を追うにつれ、音楽はますます熱を帯び、何より終楽章の若々しい、動きのある神々しさに思わず跪きたくなる。コーダ直前の第3主題のフーガ的展開から第1楽章第1主題の再現の懐かしさに魅せられ、神々しいコーダに至って音楽が爆発、昇華する瞬間のカタルシス!!

静寂を待たずに鳴り渡る聴衆の歓喜の圧倒的爆発と手に取るようにわかる興奮が印象的。

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