ネーメ・ヤルヴィ指揮バイエルン放送響 グラズノフ 交響曲第5番変ロ長調作品55(1983.3録音)

まるきり子供っぽいひとりよがりの作品でもなさそうだ。それなら、全体がまるきり気の抜けた風刺画だとしても、どこかに鋭いぴりっとしたものがあらわれていそうなものだ。ところが、ここに見えているのは、愚鈍で、無気力で、ぼけたような無能力の跡だけで、こんなものは低級な職人仕事といったほうがふさわしいのに、自分勝手に芸術作品の仲間になりすましている、無能力も、しかし、自分の職分にこれほど忠実だと、その職人仕事をほんとうの芸術と混同してしまうのだ。おなじ色彩、おなじ様式、おなじ型にはまったものなれた腕ではあるが、こんなことなら人間の腕というよりは、お粗末至極な自動機械の腕といったほうがよっぽどましだ!
「肖像画」
ゴーゴリ作/横田瑞穂訳「狂人日記 他二篇」(岩波文庫)P75-76

いかにも保守。
チャイコフスキーの衣鉢を継ぐ一人のようだが、革新性はほとんど見当たらない。
しかし、フランツ・リストを崇敬していたという点で、彼は革新派を目標にしていたことは確かだ。

随分長い間、インスピレーションに欠ける、通俗的で、心の琴線に響かない作品たちだと決めつける僕がいた。かつて朝比奈隆の実演で聴いたときも、数年前アレクサンドル・ラザレフの指揮で触れたときも、一向に僕の心は動かなかった。
通俗的であるゆえ、ときに美しい旋律に遭遇するもののどうにも心に残らなかった。

そういえば、セルゲイ・ラフマニノフの交響曲第1番の初演の棒をとり、不評を買い、失敗を招いたのもこの人だった。

音楽には聖なる一句があってこそだと僕はずっと信じているのだが、全編を通してその一句が見当たらない。おそらく当時人気を博した作品もあったのだろうが、あるいは僕の感性が単に合わないだけなのか、それはわからないが、いずれにせよ幾度耳にしても「腑に落ちない」音楽だった。

・グラズノフ:交響曲第5番変ロ長調作品55(1895)
ネーメ・ヤルヴィ指揮バイエルン放送交響楽団(1983.3.3-4録音)

明らかにチャイコフスキーを意識する解放の音楽だ。
第1楽章モデラート・マエストーソ—アレグロは、ロシアの憂愁を、神秘を表現しようとするが、どうにも表面を、上っ面だけがから滑りする。しかし、さすがに職人ネーメ・ヤルヴィの指揮は音楽の有機性を鼓舞する。

第2楽章スケルツォは自然讃歌。

そして、浪漫薫る第3楽章アンダンテの、いかにもロマノフ王朝末期という退廃美。

終楽章アレグロ・マエストーソ—アニマートは、勝利の美酒。グラズノフは酔っ払って気分良く踊る。

ネーメ・ヤルヴィ指揮バイエルン放送響 グラズノフ 交響曲第8番(1983.12録音)ほか

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