眼がさめた。眼を閉じたことさえ信じられないほどだった。だが、それが錯覚だということはわかった。なぜか数年間が経過したという確信があったからだ。
任務は完了したのだろうか? とうに土星に着き、調査を成しとげ、冬眠にはいったのだろうか? これは彼らを地球に送りかえすディスカバリー2号なのだろうか?
夢に似た痴呆状態におちいったまま、彼はじっさいの記憶といつわりの記憶の区別をまったくつけられないでいた。眼をあけたが、ぼやけた光の星座以外なにも見えず、しばらくのあいだ光の正体を考えていた。
~アーサー・C・クラーク/伊藤典夫訳「2001年宇宙の旅」(早川書房)P111
音は鮮烈、また、音調は柔和でとても新しい。
聖なる祝祭の幻想に心が洗われるようだ。
「すでに6歳にして若干のミサ曲を完全に歌いこなせた」というのは、ヨーゼフ・ハイドンの言葉である。単に技術的な問題だけではなかろう。ハイドンの内面に宿る敬虔な心が、老境にあった彼の創造力を一層かき立てたのだろうと思う。
晩年の傑作群たる6曲のミサ曲は、ニコラウス・エステルハージ侯爵夫人マリア・ヨゼファ・ヘルメネギルトの命名日の祝祭のために毎年新たに作曲するよう義務を課されたものだ。
1799年作曲のテレジア・ミサ。アダージョの第1曲キリエの美しさよ。また、第2曲グローリアは、ハイドンらしい雄渾さと貴族的高雅さを秘めた佳曲。そして、愉悦弾ける第3曲クレド。信仰の心が自ずと芽生えるよう。
1798年7月10日~8月31日に作曲されたというネルソン・ミサ。有事の不安を解消するための象徴なのだろうか、音楽は標題の「不安」をかき消すかのような優美さをもつ。2分に満たない第4曲サンクトゥスが美しく、そして、第6曲アニュス・デイがことのほか素晴らしい。ブルーノ・ヴァイル指揮ターフェルムジークの演奏は、すべてに勢いがあり、終始麗しい。
目の前には、星の子なら手を出さずにはいられないきらめく玩具、地球が、人びとをいっぱいのせてうかんでいた。
手遅れにならないうちに戻ったのだ。下の混みあった世界では、今ごろレーダー・スクリーン上に物体像が閃き、大追跡望遠鏡が空を捜しているにちがいない―そして人びとが考えている歴史も終りをつげるのだ。
~同上書P264
架空のSFのようだが、描かれている物語は刻々と現実に近づいているように思える。信仰とは仮想ではなく、現実と一体となった真実なのだと、ハイドンのミサ曲を聴きながら僕はふと考えた。嗚呼、何もかもが調和に向かっているようで、美しい。