
1705年の秋、20歳のバッハは4週間の休暇を願い出て、リューベックにやってきた。目的はもちろんブクステフーデを聴くこと。「夕べの音楽」も、当然予定に入って居たことだろう。
だが、4週間はいかにも短かった。アルンシュタットからリューベックまでは、ざっと400キロの道のりである。往復にかかる時間だけで、4週間は消し飛んだ。さらにブクステフーデの音楽が、バッハの足を釘付けにしたのはいうまでもない。
~加藤浩子著「バッハへの旅―その生涯と由縁の街を巡る」(東京書籍)P83
あまりの素晴らしさにバッハは休暇の機嫌が過ぎるのを忘れてしまい、ようやく職務に復帰したのは翌年の1月末になってからであったという。
当時、間もなく70歳にならんとするディートリヒ・ブクステフーデの何が凄かったのか。
何より礼拝とは無縁の公開演奏会(アーベントムジーク)を催していたことと、例えば、神聖ローマ帝国皇帝レオポルト1世を追悼し、さらに新しい皇帝ヨーゼフ1世の戴冠を祝うために(当時としては空前のヴァイオリンだけで25名という)大編成によるオラトリオを上演したことなどである。
要は、革新家だったのである。
バッハが感激し、そして自身の芸術に影響を受けないはずがない。
浪漫的な組曲イ長調。また、カンツォネッタの優しい歌。
そして、哀感帯びる組曲ヘ長調の荘厳さ。モーテンセンの弾くハープシコードには、生きることの喜びと死すら肯定する想念が刻印されるよう。何という確信的で堅牢たる前奏曲。
そこかしこに「クォドリベット」が木魂する「カプリッチョーサ」変奏曲の奇蹟。数年前、この音楽に初めて触れたとき、僕は思わず涙した。バッハの革新の源泉、ゴルトベルク変奏曲の源流たる音楽に魂が震えたのである。久しぶりに耳にしたたった今も、心を捉えて離さない、不思議な力を持つ奇蹟の音楽。
明くる年の早春、一人でアルンシュタットに帰り着いた時、バッハは自分が変わったのを感じた。北の港町で味わった数々の至福は、バッハの音楽への野心をいちだんと磨き上げていた。バッハはいまや迷うことなく、自分の信じる音楽を奏で始める。ダイナミックな変奏、鋭い不協和音、常識を無視した曲の長さ・・・、どれもこれも、北の港町で得た刺激の結晶だった。
~同上書P85

その頃バッハが創造した音楽の一つが、有名なトッカータとフーガニ短調BWV565だと言われる。
峻厳な表現は、カール・リヒターの真骨頂。
時に抹香臭いバッハのオルガン曲が、演奏者を、すなわち人智を超えた絶対音楽として鳴る様が見事。300年を経た現代においても通用するバッハの「新しさ」、そして、リヒターの挑戦に脱帽。
再び、ブクステフーデに戻ると、そこにはバッハ以上の革新が、否、音楽の弾ける喜びがあった。「カプリッチョーサ」の優しき調べ。