
ベラ・バルトークの音楽の魅力は、計算された「野蛮さ」にあると思う。
数学的な、緻密な構成と、定められた枠の中で縦横に暴れまくる民謡的音調が僕たちの脳みそを刺激する。そこにはバッハからの影響があり、またバッハの音が木霊する。
高次の芸術音楽において、民俗音楽の影響はいわば常に存在していた。あまり知られていない、はるか昔の時代に遡らなくても、バッハの音楽におけるコラールの旋律の役割を考えれば、そのことは十分に理解できるだろう。
(ブダペストでの講演)
~ベーラ・バルトーク/伊東信宏・太田峰夫訳「バルトーク音楽論選」(ちくま学芸文庫)P15
なるほど、バッハの場合と同じくバルトークの音楽には、聖俗両方の性質が混在するのだ。
ヨーハン・セバスティアン・バッハは確実に、彼以前の100年あまりにわたる時代の音楽の偉大な綜合者だった。彼の音楽の素材、つまりモティーフや主題の大部分は彼の時代、より正確には彼の先人たちの時代に知られていた定型的表現にほかならない。バッハの音楽には、フレスコバルディや他の大勢のバッハ以前の作曲家たちの音楽においても見出せる定型的表現が数え切れないほどある。だが、そのことは問題だろうか、剽窃だろうか? けっしてそうではないだろう! というのはどのような芸術も、他の、先行する芸術に根を下ろす権利を持っているからである。さらに言えば、権利を持つだけではなく、根を下ろさなくてはならないのだ。それならば、根を提供する役割を民俗的な芸術に与えてはならないことが、どうしてありえようか?
~同上書P29-30
二重否定によって民俗音楽の引用の重要性をバルトークは激しく訴える。
この言葉にこそ音楽家バルトークの信念と、彼の音楽の持つ普遍的な魅力の所以が表されている。
スヴャトスラフ・リヒテルの、ブラームスの第2番に続くバルトーク(協演は、ロリン・マゼール指揮パリ管弦楽団)。
洗練された造形に、激しい打鍵と祈りのような弱音に心が揺れる。
「驚いたのか? 妙だな。—下で演奏が始まると(と言って、寄せ木張りの床を足で叩いた)、自分が練習しているふりができる。さぼれるわけだ。下にはピアニストが住んでいて、かなりの腕前だ。だから思う存分、弾いてほしいものだ。彼のためにも、私のためにも。」
リヒテルは急に暴徒と化した。グランドピアノのところへ飛んでいくと、無造作に鍵盤を叩き、“クラスター”をいくつも弾いた。尋常ならざる音量による不協和音である。それも鍵盤のすみからすみまで、あらゆるところを弾く。バルコニーの窓が揺れ始めた。私の耳の中で音は鳴り響き、背筋に冷たいものが走った。リヒテルは耳を澄ませた。
~ユーリー・ボリソフ/宮澤淳一訳「リヒテルは語る」(ちくま学芸文庫)P15
リヒテルはわざとらしい。剽軽だともいえる。しかし、一たび演奏が始まると、鬼神が(否、妖精か?!)乗り移ったかのように途轍もない演奏を聴かせることになる。
リヒテルの演奏には(月並みな表現だが)「愛」がある。何とも女性的な匂いがある。
バルトークの第2楽章アダージョの柔らかい美しさ。そして、終楽章アレグロ・モルトの劇的な「歌」は、マゼール指揮パリ管の壮絶な伴奏あってのものだろう。しかし、最善は何と言っても第1楽章アレグロだ。この喜びに満ちる、開放的な民俗音楽を、リヒテルはいかにも明快にピアノを鳴らす。この作品がこれほどまでに心に迫り、そして、楽天を感じさせてくれるものだということに初めて気がついたようなもの。実に素晴らしい。