イヴ・ケラー&ハンガリー国立響の歌劇「グントラム」を聴いて思ふ

r_strauss_guntram_queler004歌劇「グントラム」は、ワーグナーの影響下にあれど、どちらかというとフンパーディンク的解放の模倣のように僕には思える。
ワーグナーは、女性の純愛こそが世界を救済すると説いたが、劇中、グントラムは最終的に女性の愛を拒絶し、自らの精神に閉じ籠ることを選択した。彼の最期の言葉はこうだ。

私の精神の法が私の人生を決定する。

おそらく「神は死んだ」と言ったニーチェの影響が大きいのだろうが、罪を贖うには孤独に自身の魂と向き合う以外に方法はないという「自責」をモチーフにしたシュトラウスは極めて現実的で真面目な性格の人だったのだろうと想像する。一般的には、金に対する執着、金の亡者であるといわれた人だが、実際のところはそうでないように僕は思う。

リヒャルト・シュトラウスの信条で僕が一際好むのは、彼が一切の小手先を使わず、ただ自身の創作物のみで勝負しようとした姿勢である。こと音楽に関しては大々的に金管群を増強し、鳴らし、我ここに在りといわんばかりに自己主張を追究した彼だが、他のものに便乗して、あるいは他の力を期待して活動をすることはなかった。つまり、決して依存的でなく、少なくとも経済的社会的には完全に自立したひとりの人間であったということだ。

ベルリンで発行された週刊誌「Der Morgen(朝)」の創刊号(1907年6月14日号)に掲載されたシュトラウス自身による小論「音楽に進歩派は存在するか」(松本道介訳)には次のような件がある。

いずれにせよ私が信条としているのは、自分のことは自分の活動と作品によって語るべきで、言葉なんぞで語るべきではないということである。芸術家がどんなに思いきった作品を発表しても、言葉でもって作品攻撃をやらかす反対派の連中の活字による声明以上の紛糾はまきおこせない。だから私は、今後とも声明なるものはスローガンなしにはやっていけない人たちにお任せしたいと思っている。
日本リヒャルト・シュトラウス協会編「リヒャルト・シュトラウスの『実像』」P26

自身の才能に対する何という自信であろうか。いや、当時の彼はもはやそれくらいの社会的地位にあり、実際に経済的にも非常に恵まれた立場にあった。
天は二物を与えずというが、古今の西欧音楽の歴史上においてシュトラウスほど創造力と生活力のバランスがとれた作曲家は他にいなかったのでは(強いて言うならブラームスぐらいか)?

幼少の頃から天分を発揮し、しかもモーツァルトを崇敬する古典主義者で、ワーグナーの「未来音楽」を徹底的に攻撃した父フランツの影響もあり、若き日は徹底して古典を学習させられたことが彼の音楽の根底に「安定感」をもたらした。青年期にワーグナーの洗脳を受け、見事にその影響を受けるようになった後も、この巨匠から音楽的イディオムを借りながらも、どちらかというとより開放的なモーツァルティアンの側面の垣間見える作品が多い。

歌劇「グントラム」の第1幕前奏曲のあまりに浪漫的な美しさ(そしてどこか「古典的な響き」にひれ伏す思い。

R.シュトラウス:歌劇「グントラム」
ライナー・ゴルトベルク(テノール)
イロナ・トコディ(ソプラノ)
シャンドール・ショーヨム=ナジ(バリトン)
イシュトヴァーン・ガティ(バリトン)
ヤーノシュ・バンディ(テノール)
ハンガリー陸軍合唱団
イヴ・ケラー指揮ハンガリー国立交響楽団(1984録音)

終幕最後のグントラムによる「フライヒルトよ、さようなら」の場面に心揺れる。
これこそ純粋な、至高の愛である。リヒャルト・シュトラウスの音楽も、実に分厚く、熱い。1894年の初演当時、ほとんど真面に評価する評論家はいなかったそうだが、今の僕たちの耳には真に心地良い音楽が鳴り響く。

 

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