リヒテル マタチッチ指揮モンテ・カルロ国立歌劇場管 グリーグ ピアノ協奏曲ほか(1974.11録音)

最近の録音で残せるのは―ショパンの前奏曲の日本ライヴ、それからシューマンの《幻想小曲集》の〈夕べに〉と〈夢のもつれ〉、《ノヴェレッテン》。あと、グリーグの協奏曲。おしまい! 残りは、どのレコードも不良品! 処分するときには祈りもするまい。
ユーリー・ボリソフ/宮澤淳一訳「リヒテルは語る」(ちくま学芸文庫)P122

リヒテル自身が認めたエドゥアルド・グリーグの協奏曲の名演奏は、マタチッチの無骨ながら愛ある伴奏に負うところが大きい。おそらくマタチッチ自身、作品に対する愛情以上にリヒテルのピアノに対して絶大なる信頼を置いていたのだろうと思う。音楽の流れが自然で、また音調はとても温かい。シューマンの協奏曲を規範にしたグリーグの渾身の傑作は、北欧という土地の冷気によって培われた堅固さとロシア的な抑圧感をいかに上手く表現するかが鍵になろうが、マタチッチはそんなことはお構いなし、むしろ自由に、堂々と開放的に音楽を創造する。そして、そこに乗じるかのようにリヒテルは音楽を思い通りに、奔放に奏でるのである。あるいは逆に、リヒテルが作品の創造を引っ張っているのかもしれないが、この際、主体がどちらかはどうでも良い。
第1楽章アレグロ・モルト・モデラートには信念が宿る。そして、第2楽章アダージョは瞑想だ。終楽章アレグロ・モデラート・モルト・エ・マルカートも重心の低い、華麗というより安定の演奏。素晴らしいと思う。

リヒテルは鬱状態になると、「壁」について語ったそうだ。
数ヶ月から半年もの間、演奏会をキャンセルし、ひたすら壁を向いて横になっていたという。よく言えば自省。彼は、内にこもって何を思ったのか。

リヒテルの名演奏は、鬱状態を抜け出したところに点在する。自身を見つめ、脳内創造活動を通して、いずれそれを解放するべきときに向け、心身を休めようとしたのだと僕は思う。

・グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調作品16
・シューマン:ピアノ協奏曲イ短調作品54
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団(1974.11.25-30録音)

ロベルト・シューマンも躁鬱気質の人だったようだが、ピアノ協奏曲は陰陽のバランスが取れた傑作であり、名盤は数多い。ここではやはりマタチッチの棒が肝。第1楽章再現部直前のオーケストラの夢見心地のフレーズは、この作品の聴かせどころでもあろうが、言葉に表現し難い指揮者の思いが妙に伝わってくるのである。リヒテルはもちろん音楽に同期し、シューマンの心情を身代わりで吐露するようにピアノを鳴らす(独奏パートの孤高の美しさ!)。続く、短くも可憐な第2楽章アンダンティーノ・グラツィオーソを何と哀しく響かせることよ。そして、終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェの迫真!!
高橋悠治の言葉を思う。

二重人格化は作品上だけでなく、生活のなかでもおこなわれた。シューマンの場合には、これ以後フロレスタンとオイゼビウスが、音楽作品や評論だけでなく、日記のなかにもあらわれる。生活は、この二人の対話のなかですぎていったにちがいない。かれ自身だけではない。友だちにあうたびに、たとえば実在のクララはダビデ同盟のツィリアとなり、そこでかわされる会話は二重のものだった。生活はそのまま仮面舞踏会だった。
「水牛の本棚」

リヒテルの弾くシューマンのフロレスタンとオイゼビウスの見事な同居に僕は感激する。

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