リリース当時、その学究的なアプローチに僕は大いに戸惑った。
何だか人工的な匂いに僕は嫌気が差した。
人間の感覚というのは面白いものだ。相応の歳を重ねると、受け皿が大きくなるのだろうか、いつの間にかどんな解釈でもかなり楽しめるようになる。自分が変わったのか、それとも時代の風潮に変化があったのか、おそらくその両方だと思うけれど、何にせよ音楽は生き生きとしていれば存在価値があり、それで良しなのだと思えるようになった。
生き生きとは、すなわち自然と一体であるということ。
知的でありながら、そこには人工性とは異なる、大自然との一体があったことを僕は発見した。
クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによるベートーヴェン。指揮者が思念を込めれば込めるほど、自然の摂理から離れていきそうなものだが、おそらくホグウッドはベートーヴェンへの執着を手放しているのではなかろうか。今の僕には不思議にとても美しく聴こえる。
自然をこよなく愛したベートーヴェンは当然宇宙にも興味を持っていた。
自然を創造した神に対するベートーヴェンの感謝の念は一入であった。リーツラーはベートーヴェンの自然愛について書いている。「田舎の自然の中に居るときほど、彼の創造的な想像力が、豊かに、自由に、働いたことはなかった。・・・自然に対する彼の情熱的な愛は、彼にあっては、多くの同時代者の場合のような感傷的なものではなくて、全く男性的創造的なものだった」。
~藤田俊之著「ベートーヴェンが読んだ本」(幻冬舎)P300
自然と創造の結びつく様がベートーヴェンならでは。
実際、「コリオラン」序曲の、溌溂とした、そしてアタックの鋭い音に、雷に打たれるが如く僕は茫然となった。
お気に入りは(ベートーヴェンが最高傑作と自認した)ヘ長調交響曲。
作曲当時、健康を害しての療養中の実とは思えぬほどの希望と期待に満ちる音調が、実に明快に表現されている点が素晴らしい。第1楽章アレグロ・ヴィヴァーチェ・エ・コン・ブリオから激しく咆哮する金管群に力強さが感じられ、続く第2楽章アレグレット・スケルツァンドの緻密なアンサンブルに感応し、(理想的なテンポで)ベートーヴェンの精神の愉悦を思う。
第3楽章テンポ・ディ・メヌエットの雄渾な(?)舞踏の、トリオの優美な音調に心和み、猛烈なスピードで奏される終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェの解放に心が躍る。