
バーンスタインのマーラーの素晴らしさは、そこに彼が作曲者の立場を重ね、マーラーならどうしたかを常に考え、必要ならば改変(?)を惜しまず、音楽をより好く再生しようとしたことだと思う。「復活」交響曲の残された3つの録音も、その時の巨匠の状況や思いが見事に反映されていて、同じものは一つもない。
(もちろん根底に流れるグスタフ・マーラーの音楽への終わりのない愛については変わりない)。
—指揮者のいくつかの「介入」が必要なこともあるのでしょうか?
もちろんです。たとえば、交響曲第2番『復活』の冒頭がそうです。最初の主題を区切っていく休止符を伸ばす必要があります。けれども、問題は、介入を必要とする箇所を指摘することではありません。いくつかの手直しはつねに必要です。マーラー自身、新たな手直しをしただろうと確信します。マーラーは、ほとんど息をつく暇もないほど、ひじょうに忙しい音楽家でした。明らかに、すべてを指示することは彼には不可能でしたし、しばしば慌てたり、仕事に追いまくられていたために、彼は適切な修正を行うのを忘れてしまったりしました。それに、マーラーは、音楽史上もっとも優柔不断な音楽家のひとりでもありました。彼は自分の楽譜のあちこちのページを変更し、さらに変更していったのです・・・
—まるで、けっして見出すことのできない完璧さを永遠に追い求めていたかのように?
まさにそう言えるでしょう。たとえば、同じページを2回か3回直した後で、マーラーは、何度目かの演奏を前に、結局、最初の版に戻ったりしているんです! 彼を追いかけ、彼の演奏会に定期的に出かけていた人々は、毎回どこか違うものに出会ったわけです。マーラーは同じ『復活』を2度と演奏しませんでした。
~バーンスタイン&カスティリオーネ著/西本晃二監訳/笠羽映子訳「バーンスタイン音楽を生きる」(青土社)P147
マーラーは自身の作品の改訂を常に行っていた。そしてそれは、(本来的な意味で)終わりがなかった。バーンスタインの指摘は正しいのだと思う。
その昔、繰り返し観たバーンスタインの「復活」が4K映像に修復されていて、その鮮明さに僕は感動した。
英国はエリー大聖堂での収録。
何度も聴き込んだ作品にもかかわらず、思わず釘付けになる。
コマ割りの問題は今となっては古臭く感じるシーンもあるにはある。しかし、半世紀前の壮年期のバーンスタインの真髄を、マーラーへの愛を感得できる点でこの映像に優るものはないだろう。
個人的には第4楽章「原光」から終楽章にかけての圧倒的音響に打ちのめされるが、全編通してバーンスタインの渾身のパフォーマンスに言葉がない。
よみがえる、そうだ、おまえはよみがえるだろう。
否、バーンスタインのマーラーは決して死なない。






