音質は決して良いとは言えないが、キルステン・フラグスタートがヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア管弦楽団の伴奏で初演したリヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」が素晴らしい。
惜別のリヒャルト・シュトラウス。
1947年の冬。
パラス・ホテルにフルトヴェングラーが訪ねてきた。シュトラウスはベッドで『トリスタン』のスコアを開き、「愛の死」の場面を読んでいた。シュトラウスは微笑みながら、ヴァーグナーのファゴットの扱いは信じられないほど素晴らしいと言った。カール・ベームが訪ねてきた時、シュトラウスは憂鬱と倦怠の中にあった。彼はドイツの歌劇場がほとんど破壊されたことを嘆き、自分は余計者になったと感じていた。シュトラウスは憂鬱から逃れるために、古典、歴史書、哲学書、孔子、ヴァーグナーの著書などをむさぼり読んでいた。息子フランツは言う。
「1948年に私たちはモントルーを訪問した。父が無聊に苦しんでいるのを見て、私はこう勧めた。『パパ、手紙を書いたり、くよくよしたりじゃ、何も始まらないよ。美しい歌曲でもかいたらいいじゃないか』。父は何も答えなかった。何か月か後にもう一度訪ねると、父は私たちの部屋に入ってきて、『あんたの亭主が注文した歌曲だ』とアリーチェに言い、テーブルの上にスコアを置いた」
~田代櫂著「リヒャルト・シュトラウス—鳴り響く落日」(春秋社)P392
アイヒェンドルフとヘッセの詩に曲を付した最後の歌曲集には「トリスタン」の木霊が聴こえ、真の世界の平和を願う、シュトラウスの想いが見事に刻印される。そこに見るのは守銭奴と陰で言われた彼の、地位も名誉も財産もおいて行かねばならぬ諦念であり、人生の最期を迎えた大家のこの世への別れを告げる、余計なものを削ぎ落した純真無垢な音楽だった。
ルチア・ポップ、死の半年前の記録。
脳腫瘍のため54歳で死去した彼女は、録音時、自身の死期を悟っていたのだろうと思われる。涙失くして聴けぬ歌唱の中で、とびっきりはアイヒェンドルフの詩による第4曲「夕映えに」だろう。
苦しみにつけ、よろこびにつけ、
ぼくらは手をとりあって歩んできた、
さすらいの足をとどめて、いまぼくら二人は
静かな田園を見はらす丘でやすらう。
(西野茂雄訳)
足さず、引かず、ありのまま。吉凶禍福すべてが順調であったと悟ったとき、世界に平和が訪れる。ポップは文字通り分かったのだと思う。
そして、2021年10月18日、74歳で亡くなったエディタ・グルベローヴァの歌唱による「ブレンターノの詩による6つの歌」には、人間の声を超えた、いかにも彼女らしい清廉な歌がある。例えば、第1曲「夜に」における、聖なる夜の、闇を破る光輝を顕すのが文字通り彼女のコロラトゥーラだ。
あるいは、カリータ・マッティラの歌唱には健康的な明朗さがある。ハインリヒ・ハイネの詩による歌曲「東方から訪れた三博士」作品56-6は(いかにもシュトラウスらしい)管弦楽の官能的で懐古的な前奏から実に魅力的で、マッティラの開放的な歌が華を添える。