僕は滋賀の山育ちのせいか「海」にはあまり縁がない。子どもの頃、海水浴といえば「琵琶湖」。厳密に言うなら「湖水浴」である。しかも、その日本最大といわれる湖に行くには車で1時間近く移動しなければ辿り着けない距離であり、子どもにとってはとても「遠い所」であった。それでも夏休みの潮干狩りや海水浴といわれるお祭りごとは楽しみで、前の晩から興奮して眠れないということも多々あったと記憶している。
正月に帰省した際、山の守神である「飯道神社」詣でをしたことは前にも書いた。その時に撮影した写真はとても神々しく、オーラが光って見えた。山のエネルギーは清澄で高レベル。あぁ、こういう所に生まれ育ったんだなとあらためて痛感したものである。
「海」にしろ「山」にしろ「自然」とは壮大で「母なる大地」というものを実感させてくれる。かつてポール・ヴェルレーヌは次のような詩を残した。
大伽藍より
海はさらに美しい
忠実な乳母
泡立つ波の子守歌
処女マリアが
その上で祈る海!
恐ろしく、あるいは優しい
すべての富を海は持つ
私は聴く、その許しを
怒涛の怒りを・・・
ポール・ヴェルレーヌ(濱田滋郎訳)
ドビュッシー:海(ラ・メール)~3つの交響的スケッチ
シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団
1905年に作曲されたドビュッシーの傑作。印象主義の権化ともいうべきふわふわした浮遊感が何とも気だるい雰囲気を醸し出す。基本的にドビュッシーの音楽は苦手であったが、ここのところ頻繁に聴き、「少しずつ」だが、わかってきたような気がする。どちらかというとドイツ音楽を信奉し、ソナタ形式などの堅牢とした枠の中での音楽を楽しんできた僕にとって、どうも浮ついた感じが逆に嫌悪感として残ったのだろうが、よくよく聴いてみるとこれほど「しっかりとした」音楽の構成はなかなかないかもしれない。どうやら僕自身にとって「新発見」のようだ・・・。桜が咲き始める「春めく」今頃にドビュッシーの音楽はよく似合う。
今宵、新宿のフレンチ・レストランで旧知の友N代と食事をする。例のセミナー関係で知り合ってかれこれ20数年になる。1年少し振りだが、食事をしながらゆっくり話すのは何年ぶりだろうか・・・。積もる話は多数・・・。
ちなみに今日はハンス・クナッパーツブッシュの120回目の誕生日である。そして、2年後のこの日にヴァーツラフ・ニジンスキーも生まれている。ニジンスキーの振付けた「牧神の午後への前奏曲(音楽:ドビュッシー)」は刺激的である。
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[…] ね合わせるかのように内から湧いて出てきたということもあろう。2種の音盤(デュトワ&モントリオール響盤とブーレーズ&クリーヴランド管盤)をじっくりと聴き、それまでの音楽に […]
[…] ドビュッシー:交響的断章「聖セバスティアンの殉教」(1982.9Live) ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編曲)(1999.2.21-23Live) ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団 今更ながらドビュッシーの天才に度肝を抜かれる。 昨日のリサイタルでも感じたことだが、彼も若き頃にワーグナーの薫陶を受け、結果的に独自の路線を発見し、当時の聴衆からどれだけ理解されていたかはわからないけれど、20世紀の後の音楽シーンにまで多大な影響を与えたことを考えると、ドビュッシーも音楽史上唯一無二の存在であることを確信する。 そのことは晩年の劇音楽「聖セバスティアンの殉教」を聴いても明らか。残念ながら、僕は全曲版を知らない。デュトワによる名演奏でこの音楽について初めて知り、そしてこのヴァント盤でより深く知らしめられた(ただし、いずれも抜粋=交響的断章によるのだけれど)。 […]
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[…] ※過去記事(2008年3月12日) […]