
ベートーヴェンの「フィデリオ」は、モーツァルトの「魔笛」とならび、人類救済の大いなるヒントに富んだ傑作だと僕は考える。「魔笛」はともかくとして周囲に「フィデリオ」を挙げ、讃美すると、怪訝な表情をする人が多い。台本の問題なのかどうなのか、その真髄を理解しない人たちにとってはつまらないものに映るのかもしれない。しかし、音楽を含め、これ以上に真理に準じた物語はないし、(少なくとも西洋音楽史的に)今後も出ることはないだろう。
たぶん、そのことをフルトヴェングラーはわかっていた。
「ザルツブルク音楽祭」にまつわる論文を読んでも明らかだし、「『フィデリオ』の序曲」と題するエッセイ(?)を読んでもそれははっきりしている。
しかし一つの場所がオペラの内部にあり、ここでは序曲が意味を獲得し、しかも同時に作劇法的な機能を—たとえ本来ベートーヴェンの考えていた機能ではないにせよ—果たすことができる。それは牢獄の場のあとである。グスタフ・マーラーによって打ち出されたヴィーンの伝統に従うことにもなるが、この個所に置くならば、序曲はドラマの内部において、たとえば『神々のたそがれ』でジークフリートの死に続く葬送行進曲が占めるのと同じような意義を獲得することであろう。序曲は過去への追憶となり、讃美となる。ヴァーグナーにあっては主題群と音楽の手法によってジークフリートの英雄的な全生涯があたかも凹面鏡に集結されるように再び追憶されるのであるが、ベートーヴェンにあっては聴衆の心眼に、オペラで生起したすべての出来事がいまいちど最高度の凝縮と浄化のうちに浮かび上がる。ヴァーグナーの場合には内的な事象のあとに最終場面の外的な事象が続くが、ベートーヴェンにあっても、先ず序曲が精神の内部での完成と讃美をたぐいなき壮麗さで表現し、続いて舞台上にオペラの現実の終結がおとずれるのである。演劇史上には、これに類似した状況や解決法が少なからず見出される。古代ギリシア悲劇の合唱もその一例であるが、これも同じく悲劇に対して、筋の進行を遅らせる自己省察ないしは回顧としての課題を果たすのである。だがなによりもまず、『レオノーレ』序曲がここで継続し、深化・拡大しているものは、すでに『フィデーリオ』の構想のうちに当初から含まれていたものにすぎないという事実に注目すべきであろう。なぜならオペラにあっても、まず牢獄の場面が恋人同士の再会という内的な解決をもたらし、次いではじめて大臣と民衆の前での確認という外的な解決をもたらすからである。いつか序曲をこの個所で現実に聴いたことのある人なら、音楽がかくも強大な力をもって聴衆に語りかける瞬間が音楽史上においても数少ないことを知っているにちがいない。
『フィデーリオ』の序曲(1942年)
~フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音と言葉」(白水社)P186-187
マーラーの特別な方法を、以来、一般的になった方法を、これしかないとフルトヴェングラーも讃美する。あの場面での「レオノーレ」序曲は、過去への追憶となり、聴衆の心眼に、オペラで生起したすべての出来事がいまいちど最高度の凝縮と浄化のうちに浮かび上がるというフルトヴェングラーの言葉に膝を打つのだ。
同様に、オットー・クレンペラーも「フィデリオ」や「魔笛」について次のように語っている。
ヘイワース しかし先生が1961年にコヴェント・ガーデンで『フィデリオ』をなさったときには、ヴィーラント・ワーグナーの演出には従っていませんでした。この点については考えを変えられたのですか。
クレンペラー たぶん、少し変えたのです。コヴェント・ガーデンで指揮したときには、わたしはベルリンでやったときとは違った『フィデリオ』の一面を見せようとしたのです。
ヘイワース コヴェント・ガーデンではフィナーレの前に『レオノーレ』第3番を指揮なさいましたが、クロール・オペラではやられませんでした。
クレンペラー 古い問題ですね。ベルリンでは、ドラマは牢獄の場面で終わり、フィナーレになると考えていましたが、今はそれは正しくないと思っています。たしかにドラマは終わりますが、それからベートーヴェンは、鎖につながれ、愛する女に助けられた一人の男の物語を、全人類的なレヴェルにまで高めています。個人の運命が人類の運命になります。それはもはやフロレスタンの運命の問題ではなく、ベートーヴェンの人生観の問題です。ベートーヴェンはこの序曲のなかで、物語全体をくりかえしている。わたしはこのくりかえしが上演全体にさらに意味を与えるものだと思うのです。とにかくそれが現在のわたしの意見です。明日どう変わるかわかりませんが・・・。
ヘイワース ロンドンでは『フィデリオ』の演出もなさいましたね。
クレンペラー コヴェント・ガーデンで『フィデリオ』と『魔笛』を演出しようときめたのは、音楽の構成が舞台上で起こることに絶対に妨げられないようにするためでした。わたしは「歌詞はつねに音楽の従順な娘であるべきだ」というモーツァルトの有名な言葉を固く守らなければならないと思います。この言葉はすべてを言いつくしています。
~ピーター・ヘイワース編/佐藤章訳「クレンペラーとの対話」(白水社)P193-194
僕は、あらためてクレンペラーの言葉に、巨匠の信念に感動した。
伊達に不死鳥の如く蘇った人ではないと感激した。
クレンペラー&フィルハーモニア管の歌劇「魔笛」を聴いて思ふ コヴェント・ガーデンはロイヤル・オペラ・ハウスでの実況録音。
まさに晩年のクレンペラーが語る伝説の公演のライヴ録音。
ライヴゆえの瑕はあるが、全編通じ、クレンペラーの、重心の低い、堂々たる解釈に舌を巻く。それこそ「個人の運命が人類の運命に転化される」皆大歓喜の世界を象徴する名演奏だと断言できるだろう。
こちらも1961年の奇蹟!
