
モーツァルトのピアノ・ソナタは、僕にとって大切な宝物だ。
誰のどんな演奏を聴いても、大抵感動を覚える。それくらいに無駄のない、優れた、完璧な作品群だと思う。年齢を重ねて数多の作曲家のソナタを聴いてきたが、僕の場合、最終的にベートーヴェンとモーツァルトに戻ってくる。
あらためてリヒテルのモーツァルトを聴いた。
晩年に近づけば近づくほど、一層神秘的な演奏を披露したリヒテルだったが、巨匠のモーツァルトは極めて自然体の愛らしさを秘め、抱きしめたくなるくらい可憐な様相を示す(あくまで個人的な感想だけれど)。
何だって? もはや凌駕されることのない高浮彫をどんなことがあっても達成することが、音楽の演奏家たちが現今そう信じていると思われるとおり、ほんとうに演奏の第一の徳であろうか? これこそたとえば、モーツァルトにあてはめて言えば、幸いにもドイツ人ではなかったし、またその真剣さは、温良な真剣さ、黄金の真剣さであって、ドイツの愚直者の真剣さではなかったところの、モーツァルトの精神に、モーツァルトの快活な、夢みるような、やさしい、惚れっぽい精神に対する本来的な罪ではなかろうか・・・いわんやモーツァルトの真剣さは「石像の客」の真剣さではない・・・ところが君たちは、すべての音楽は「石像の客」の音楽であり、—すべての音楽は壁から跳びでて、聴き手の臓腑のうちまで揺すぶらなければならないと考えるのであろうか? ・・・そうであってはじめて音楽は効果をあげるとは! —誰に対してそのとき効果をあげるのであろうか? 高貴な芸術家ならけっしてはたらきかけてはならない或るものに対して、—大衆に対して! 未熟な者に対して! 鈍感な者に対して! 病弱な者に対して! 白痴に対して! ヴァーグナー主義者に対して! ・・・
「ニーチェ対ヴァーグナー」
~原佑訳「ニーチェ全集14 偶像の黄昏/反キリスト者」(ちくま学芸文庫)P359-360
この時期のニーチェの思想にはもはや綻びが大いにあろう。
ニーチェは何としてもリヒャルト・ワーグナーを破滅に追い込みたかった、それだけの目的のためにあらゆる語法を通じて天才を葬ろうとした。
ちなみに、「石像の客」についての言及は「悲劇の誕生」にもみられるが、ニーチェはあくまで恣意のない、自然体の音楽芸術を絶対としていたと思われる。確かにモーツァルトの音楽ほど純粋無垢なものはない。ならば再現者としてモーツァルトをいかに天真爛漫に、赤子の心でもって表現できるか、そこに尽きるのだと思う。
(そういう観点からいえば、グレン・グールドのモーツァルトは失格だ)
(あるいは、リヒテルのモーツァルトでさえ何かしらの思惑が刻み込まれているのかもしれない)
グレン・グールドのモーツァルトを聴いて思ふ 他方では、ディオニュソスは、彼の情熱的な合唱歌の間は、いわば神の生ける像、生ける彫像であった。また事実、古代の俳優にはモーツァルトの大理石像を思わすものがあった。近代の或る作曲家はこれに関して次のような凱切な批評を下している。曰く、「われわれの扮装せる俳優においてわれわれを迎えるものは、自然な人間である。悲劇的な仮面においてギリシア人を迎えたものは、人口的な、何なら次のように言ってもよい、英雄的に様式化された人間であった。しばし約百人もの人物が群れているわれわれの奥深い舞台は、演技をして、これ以上はおよそ不可能なと思われるほどの生彩奕々たる極彩色の絵巻物たらしめる。前面近く背景が押し出ている古代の幅の狭い舞台は、壮重に動く少数の人物たちを神殿の破風の生ける薄浮き彫りか、生気に溢れる大理石像たらしめる。奇蹟が、アテナとポセイドンとの間の争闘を描くかの大理石の人物たちに生命を吹き込んだならば、彼らはさだめしソフォクレスの言葉を語ったことであろう」と。
「ギリシアの楽劇」
~塩屋竹男訳「ニーチェ全集2 悲劇の誕生」(ちくま学芸文庫)P228-229
死者に生命を吹き込むほどのリアリティこそ芸術に必須のものだ。
だからこそ、わざとらしい恣意は、それが見えてしまうことは最悪の事態なのである。
ロンドンはバービカン・センターでのライヴ録音。
(時代が昭和から平成に移行した、その直後のこと)
残された映像を確認すると、いつものように証明を極限に落としての、そして譜面を凝視しての、リヒテルならではの儀式。
それゆえか、途轍もない集中力をもって奏されたモーツァルトの美しいソナタたち。
(これらは彼のソナタの中でも屈指のものであり、ずっと以前から僕の最愛のソナタたちだ)
リヒテルの演奏は純粋無垢。多少の遊びを入れつつモーツァルトの本懐を抉り出そうと試みる。生真面目なリヒテルが何と楽しそうにピアノと戯れることだろう。
ソナタ変ホ長調K.282から実に生き生きとした歌。
また、ソナタハ長調K.545は、第1楽章アレグロの、中庸のテンポによる余裕が、当時啓示的に困窮にあったモーツァルトの本心を、童心を描く。(嗚呼、何と美しい!)
そして、ソナタイ短調K.310は、後の「石像の客」につながる悲劇のメッセージをもたらす潜在的デモーニッシュの顕現。まさに「悲劇の誕生」だ。
(旅を共にした母の死と連関するのは確かだろう)
