
モーリス・ラヴェルはムソルグスキーの音楽に相当のシンパシーを感じていたようだ。
例えば歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」においても、当時一般的に上演されていたリムスキー=コルサコフ版ではなく、原典での上演を熱望していた。ムソルグスキー本来の響きはこんなものではないことを彼は知っていたし、物語の進行についても「最初のもの」が絶対的であろうことを予見していた。
後年披露される「ボリス・ゴドゥノフ」の音響からそのことは正しかったことが証明される。
他人によって化粧が施されたものは、「ボリス」でなくともムソルグスキー本来の姿ではなかった。(もちろん様々な版は一つのバージョンとして認識されるべきで、否定されるものではない)
「ボリス・ゴドゥノフ」の1913年の再演の際、ラヴェルは批評を書いた。
そこには次のような見解がある。
おそらくさらに、私たちに提供されたのはムソルグスキーの本当の作品ではない。本当の《ボリス・ゴドゥノフ》の部分的復元を望むのはあまりにも要求が多すぎることになるのだろうか?
ド・ディアギレフ氏は、いまだかつてフランスで上演されたためしのなかった旅籠屋の場面を私たちに取り戻させてくれることになる。なぜ敢えてもう少しやらないのだろうか? 第5場における逃げたオウムの挿話や自動人形のぞっとするような出現をどうして復元しないのか? それらがないと、その時演奏される音楽は、その解説でしかないので、理解不可能になる。なぜ、イエズス会士ランゴーニというとても短いけれど重要な役を削除するのだろう? 最後になるが、なぜ、作品—その主役は群衆である—の演劇的な意味作用を最後の二場の順序を逆さにすることによって破壊し続けるのか?
~モーリス・ラヴェル/笠羽映子訳「ラヴェル著述選集」(法政大学出版局)P104-105
やはりこの人は天才だった。
ムソルグスキーに惚れたばかりに、クーセヴィツキーから管弦楽版編曲の委嘱があったとき、ラヴェルは即座に受けた。そして、いかにもムソルグスキーらしい、ロシア的土俗的音調を避け、華麗で洗練されたオーケストレーションを施した。そのお蔭で初演も大成功を収め、それまでほとんど知られることがなかったこの曲が徐々に注目を浴びるようになったのである。
マゼール指揮クリーヴランド管のムソルグスキー「展覧会の絵」ほか(1978.10録音)を聴いて思ふ 久しぶりにロリン・マゼールのテラーク盤。
ムソルグスキー:
・交響詩「禿山の一夜」(リムスキー=コルサコフ編曲)
・組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編曲)
ロリン・マゼール指揮クリーヴランド管弦楽団(1978.10.20録音)
その昔、テラーク・レーベルの広告が音楽雑誌のそこかしこに掲載されていた頃、マゼールの一連のレコードが目についた。当時は、僕にも妙な先入観があって、アメリカのこの新興レーベルの録音をどういうわけか避けていたのだが、CD時代になって、いくつかを聴いたとき、その音の迫力にのけ反ったことをよく覚えている。
マゼールの「展覧会の絵」は初期のものほどいかにも恣意的な解釈が施されていて、3回目のこの演奏が一番大人しい。奇を衒ったところがない分、実に正当なムソルグスキー/ラヴェルの「展覧会」で、安心して耳を傾けることができる。
何て素晴らしい、永遠不滅の音楽がここにあることか。
ラヴェルは「ボリス・ゴドゥノフ」の中で次のように締め括る。
いつようやく私たちは、この天才的で不幸な作品をその元々の版にもっと近いかたちで目にすることになるのだろうか? そのためには、それが公有財産になる(著作権が消滅する)のを待つ必要があるのだろうか? いつようやく貪欲かつ軽率な出版業者は、彼が—不吉な手品によって—独占所有権を主張したすべての傑作の所有権を奪われるのだろうか?
~同上書P106
ラヴェルの、ムソルグスキー愛は実に本気だった。
