バルシャイ指揮ユンゲ・ドイチェ・フィル マーラー 交響曲第10番嬰ヘ長調(2001バルシャイ補筆完成版)(2001.9.12録音)

デリック・クック版をベースに、17種もの打楽器を増強したルドルフ・バルシャイ版(ほとんどショスタコーヴィチの音響に近づいているのか?!)。ほかにもホルン6本、テナーホルンとコルネットの追加、さらにはハープ2台、チェレスタ、ギターも追加されているというのだから驚きだ。

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こういう音楽は実演でなら一層楽しめるだろうが、バルシャイ亡き後、この版を積極的に使用した指揮者がいるのかどうなのか。日本でも2003年に東京都交響楽団が作曲者本人の指揮で初演しているが、残念ながら僕は参戦できなかった。何とか実演に触れたいものだ。

いかにもマーラー的でない部分もあるが、マーラーの作品への愛情に満ちていることは明白だ。幾度か生で聴いたルドルフ・バルシャイの指揮は、とても明快で、心地が良かった。

ダンテはウェルギリウスに導かれて暗き林を離れ、地獄の門よりたえず左に道をとり、地獄各圏を歴程してその底にくだり、さらに地心を過ぎて南半球に移り、地下の幽路を辿りて再び地上にいづ。二詩人が地獄内に費せる時間は約二十四時間なり。
ダンテ/山川丙三郎訳「神曲(上)地獄」(岩波文庫)

バルシャイ版を理解するのに「神曲」の地獄篇が鍵になるという。

第29曲
多くの民もろゝゝの傷はわが目を酔はしめ、目はとゞまりて泣くをねがへり
それどヴィルジリオ我に曰ふ、汝なほ何を凝視るや、何ぞなほ汝の目を下なる幸なき斬りくだかれし魂の間にそゝぐや
ほかの嚢にては汝かくなさゞりき、もし彼等をかぞへうべしとおもはゞこの渓周圍二十二哩あるをしるべし。

~同上書P172

マーラーは常に悲観論者だったが、第10番に至って、ついにその「至極」を脱出せんとしたのだろうと思う。第3楽章「プルガトリオ(煉獄)」におけるバルシャイの音楽は、実に完璧にピエロを演じる。
しかし、彼は途中で亡くなった。完成する時間を天は彼に与えなかった。
そのこと自体が彼の人生の答なのだろうと思った。

ただし、バルシャイ版によるバルシャイの演奏はとても透明で清澄だ。

・マーラー:交響曲第10番嬰ヘ長調(2001年ルドルフ・バルシャイ補筆完成版)
ルドルフ・バルシャイ指揮ユンゲ・ドイチェ・フィルハーモニー管弦楽団(2001.9.12録音)

ベルリンはコンツェルトハウスでの録音。
一たびプレーヤーにかけると幾度も繰り返し聴きたくなる名曲の名演奏。
トルソー作品において、個人的にはとても好きな補筆版。

グスタフ・マーラーは交響曲第10番を完成させることができませんでした。5つの楽章のうち3つはスケッチと構成のみが残されました。これらは1960年代にデリック・クックによって解読・編集され、フルオーケストラによる演奏が可能になりましたが、ある種の不安感は常に残っていました。全体のコンセプトにおいて、力強さ、豊かな響き、そして鮮やかさが欠けているように感じられたからです。

晩年、マーラーの人生の支柱は崩れ落ちました。アルマとの結婚生活の危機、不治の心臓病、そしてまた長女の死によって、交響曲第8番で千人もの歌手、奏者によって響き渡った「幸福な思念」に終止符が打たれたのです。1910年、ミュンヘンで交響曲第8番の初演を指揮した後(トーマス・マンは大きな感銘を受けました)、音楽界に嫌気がさし、彼はウィーン宮廷歌劇場の指揮者の職を辞しました。そして、自身の死後の家族の生活を支えるためにニューヨーク・フィルハーモニックを指揮し資金を集め、同時に交響曲第10番の作曲にも取り組みました(スケッチには謎めいたメモや絶望の叫びが書き残されています)。

19世紀を通じて交響曲の形式は飛躍的に発展し、グスタフ・マーラーにおいて形式の複雑さと哲学的内容の両面で絶対的な頂点に達しました。マーラーが、交響曲第10番を、それ以前の10曲(「大地の歌」を含む)よりも壮大な構想に基づいて作曲したとは考えにくいでしょう。もし私たちがそれを完全に理解できていないとしたら、その理由は、従来の形式が不十分だったことにあるのかもしれません。交響曲第10番は懐古的ではなく、むしろ進化していることは音楽の素材から明らかです。第1スケルツォでは、マーラーはストラヴィンスキーやベルクと同様に、リズムの制約から解放され、大衆的かつ未来的な素材を、遊び心をもって発展させようとする力に溢れています。アルバン・ベルクの「ヴォツェック」のように、この交響曲はアーチ型に構想されています。ソナタ形式による2つの大規模なアダージョ楽章が2つの激しいスケルツォ楽章を挟み込み、短い、中心となる「煉獄」楽章によって隔離されているのです。ここからは確かに新ウィーン楽派の片鱗を垣間見ることができます。マーラーは新たな地平を切り開こうとしており、ここでは後継者たちと同様に、2度音程や7度音程を、もはや不協和音とは言えないほどまでに進化させているのです。したがって、マーラーのスケッチから逸脱してはならないのです。彼の自筆譜を解読しようとする難しい試みは、本来唐突なままにしておけば良いものを和声的に滑らかなものにしようとする傾向を生み出します。彼の生み出した曖昧な和声こそが、いくつかの瞬間において実に悪魔的なものになるのにもかかわらず。

ルドルフ・バルシャイは、1950年代後半のモスクワで、作曲家のアレクサンドル・ロクシンから電話を受けたときのことを覚えています。「すべてを放り出して、すぐに私のところに来てくれ!」、彼はそう伝えました。指揮者のアルヴィド・ヤンソンスがロクシンのためにヘルマン・シェルヘン指揮のアダージョ楽章の録音を持ち帰り、それをバルシャイに聴かせました。二人はこの新しい音楽の世界に深く感銘を受け、衝撃を受けました。その日以来、バルシャイは交響曲第10番に魅了され続けたのです。そして、マーラーへの敬愛と作曲家のオーケストレーションの原則への熱意が、マーラーが残したスケッチからの独自のバージョンを創造するよう駆り立てました。

1977年の亡命後、バルシャイは偉大な交響曲のレパートリーに目を向けたことで、今日では最も著名なマーラー指揮者の一人として数えられるようになりました。マーラーの音楽は彼の血肉となり、第10番はそれ以来、彼の頭から離れることはありませんでした。第10番はマーラーの最後の遺言であり、スケッチに残された彼のメモは、実に個人的で親密な性質を持っています。しかし、それらは音楽の「プログラム」そのものに付随するものではありません。以前の交響曲においても、マーラーの個人的な経験は偉大なコンセプトを生み出すゆりかごだったことに間違いはありません。例えば、アルマによって証明された、ニューヨークの亡くなった消防士への別れとしてのドラムの音は、第10番にも響き渡り、あらためて死の象徴となっています。しかし、それよりも音楽的価値の観点からはるかに重要なのは、音楽的個性やバッハからの引用です。マーラーが実際に完成させた「煉獄」は、彼の交響曲のほかの楽章と同様に、「地上の生活」という歌から派生したものです。これは、官僚主義によって支配される世界の歩みについての寓話でした(交響曲の中では、より高次の目的を果たしています)。

第9交響曲の最後、すべての力が滅しています。こうして第10交響曲は無から始まるのです。そしてそれは、「歌う」という方法で始まります。冒頭のヴィオラのユニゾンはレチタティーヴォを奏し、続いてグレゴリオ聖歌のコラールが演奏されます。嬰ヘ長調の荘厳な賛美歌もまた、6度と8度の跳躍が進んで用いられる真のコラールです。第1主題は一つのリズムから展開され、第3主題は皮肉にもそれと関連性がありますが、それこそ対位法を強固にするのに最適であり、内容と構成の両面でそのことがとても重要です。黙示録的なオルガンの力強い変イ短調もまた、マーラーがここで自身の運命を超えたことを示しているでしょう(彼にとってそれは輪廻転生という仏教的瞑想の一例に過ぎなかったのですが)。

確かに第2スケルツォと「大地の歌」第1楽章、そして「この世の腐った偽善」への嘲笑の間にも関連性があります。
ここでマーラーの書いた音符(「悪魔が私と踊っている」)は、まさに標題音楽的です。その悪魔は誘惑者の優雅ささえも身につけており、それは真に官能的に響かなければならないのです。ドラムのビートの後、交響曲の主要主題が再登場し、アルマへの別れの歌「あなただけがその意味を知っている」も聴こえてきます。煉獄のモチーフもまた現われ、「おお、神よ、なぜ私を捨てたのですか」という音符と関連付けられ、そしてあの果てしないフルートの旋律が上昇し、16小節で音楽史上類を見ない和声的な緊張感を生み出します。第1楽章の回想、トランペットの復活、そして12音和音は円環を閉じ、ロ長調の終わりのない主題のためにスペースを提供するのです。この主題は属音の効果で嬰ヘ長調へと転調し、その「静寂」は「大地の歌」の最後に似ています。

これは、マーラーが音楽に注ぎ込みたかった個人的な恋愛関係だけではありません。この感情がアルマをどれだけ喜ばせたとしても、作曲家はここで、ベルギリウスに手を引かれて地獄を案内されるダンテのように、ベアトリーチェの代わりにアルマを据えて、細かく描かれた地獄を歩んで行く姿を想像していたのです。第10交響曲のコンセプトは「神曲」と同じくらい野心的で、そこには愛と死という人間の根源的な問題だけでなく、宗教の究極的な問いすらも含まれているのです。

ルドルフ・バルシャイの演奏では、マーラーの意図が西洋思想と仏教の輪廻転生の思想を一つにすることだったことがよりはっきりします。

(ベルント・フォイヒトナー)

実際、マーラーは生と死の解決を求めていたことは確かだ。
ワーグナーの再生論に魅かれたのもそれゆえだろうと思う。
未来永劫、終ることなく響き渡るバルシャイのマーラーの第10交響曲を聴きながら、あの世のマーラーの魂を思った。

バルシャイ指揮ユンゲ・ドイチェ・フィル マーラー 交響曲第5番(1999Live)

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