ギーゼキング フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル シューマン ピアノ協奏曲(1943.6.27Live)ほか

古い録音から匂う詩情と強烈な感情。相変わらず自由で大胆で、しかも知性溢れる独奏に僕は恍惚となる。コルトーの演奏に追随するサー・ランドン・ロナルド指揮ロンドン・フィルハーモニックの演奏も夢見るようで何と浪漫満ちるのだろう。

・シューマン:ピアノ協奏曲イ短調作品54(1934.10録音)
・ショパン:ピアノ協奏曲第2番ヘ短調作品21(1935.7&8録音)
アルフレッド・コルトー(ピアノ)
サー・ランドン・ロナルド指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

間奏曲と題される第2楽章アンダンティーノ・グラツィオーソの夢想がことに美しい。ここでのコルトーは衝動を抑え、ただひたすらシューマンの音楽に没頭する(ロンドン・フィルの陶酔的な弦楽器の音色があまりに素晴らしい)。

29日、火曜日、彼は彼の苦しみから救われた。午後4時、彼はおだやかな眠りに落ちた。彼の最期の時は静かだった。そして、誰にも気付かれず、眠りのうちに息をひきとったのであった。私はその30分後に彼のところに戻って来た・・・彼の顔は美しかった。額は透明で少し曲っていた。私は熱烈に愛した夫の屍の傍に立っていた。気持は静まっていた。私の全ての感情は彼がついに自由となったということに対する神への感謝で浸されていた。そして私が彼のベッドへひざまずいた時、畏敬の念で満たされた。彼の霊が私の上を舞っているような気持におそわれた―ああ! 彼が一緒に私を連れて行ってくれたら・・・
若林健吉「シューマン―愛と苦悩の生涯」(新時代社)P336-337

人の世は実に儚い。
死に直面する恐怖と不安の一方で、不思議な安堵が横溢する死そのものの幸福よ。もし仮に生死の解決ができたなら、人々はそれほど幸せなことはないだろう。そうして、今この瞬間を存分に生きることの貴さを、ロベルト・シューマンを聴いて思う。

あのたえず小刻みに顫えているような身ぶりは、いかにもリズムの安定を欠いている感じで、ときおり超自然的な精霊を呼びだす魔術師のそれとも紛うものがありましたが、あの身ぶりの目ざすところは、もっぱら氏のまえにいる演奏家たちにその伝染力ゆたかな効果を伝えることにあったので、氏が背を向けているホールの聴衆はまったく念頭になかったからです。
おのれ個人の成功を求めるという姿勢からはまったく無縁なこの指揮態度のゆえにこそ、耳に残った感動は強く、そのこだまが人々の記憶から消えるには長い時間がかかるでしょう。しかもこだまは消えても、音楽の奇蹟という想念はいちだんと高められて人々の胸に残るのです。
このこだまは、わたくしの場合、ことに感動的に長く尾を引いて残るでしょう。少なくとも、運命の偶然によって仮にわたくしに頒たれている生命のあるかぎりは。
と申しますのは、わたくしたちは、来月、さ来月と相共に、シューマンの『ピアノ協奏曲』とセザール・フランクの『交響変奏曲』を録音する予定になっていたからです。氏の指揮のもとにあの演奏が実現できたら、わたくしの長い演奏生活のまれなひとときとなりましたろうにと、残念でなりません。

マルティーン・ヒュルリマン編/芦津丈夫・仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーを語る」(白水社)P29

フルトヴェングラーは聴衆よりも目の前の演奏者への思念の伝播を意識していたようだ。それにしてもアルフレッド・コルトーのフルトヴェングラーへの追悼の辞の、格別なる思いよ。果たしてコルトーとフルトヴェングラーのシューマンはどんな演奏になったのだろう?晩年のコルトーらしい奇天烈な、スリリングな演奏を、フルトヴェングラーの一層熱狂的かつ意志的なサポートを得て、史上稀に見るものになっただろうか。彼らがシューマンの協奏曲の録音を残せなかったのは残念以外の何ものでもないが、代わりに(なるかどうかわわからないが)、僕たちにはフルトヴェングラーがワルター・ギーゼキングと協演した戦時中の(実にインスピレーション豊かな)実況録音がある。

・ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調作品60(1943.6.27Live)
・シューマン:ピアノ協奏曲イ短調作品54(1942.3.1Live)
ワルター・ギーゼキング(ピアノ)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ギーゼキングのピアノは、もっと即物的な、感情に左右されないものだという先入観があったが、おそらくフルトヴェングラーの解釈に引っ張られているのだろうか、とても浪漫の匂い薫る、官能的な演奏だ。熱波に煽られるような激烈な第1楽章アレグロ・アフェットーソの管弦楽に対し、ギーゼキングのピアノのピンと張りつめた厳しく堂々たる音。また、第2楽章アンダンテ・グラツィオーソの、(コルトーとは正反対の)実に現実的な調べ。そして、もの凄い推進力の終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェの慟哭。おそらくこの日、その場にいた聴衆は電気が走るほどの感動で言葉を失ったのでは。

ここでコルトーの言葉を再び引用する。おそらく二人の協演が録音で実現していたら戦時中の実況録音を超える人類至宝のシューマンが生れただろうという空想とともに。

なんどか想い出のなかに新たによみがえってまいりますひとつの経験に鑑みまして、わたくしは確信しています。わたくしたち二人にとっていずれ劣らず愛しいものであった計画が日の目を見て氏との協演がかないましたなら、そのレコードはどんなに類のない詩的な意味をもちえたことでしょう。そしてそのレコードは、また蓄音機の援助とあいまって、今日までの二人を舞台の上で結んでいた親密さの特典を記念するものとして価値ある記録となったでしょう。
~同上書P29

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