高橋悠治のバッハ「ゴルトベルク変奏曲」(1976.10録音)を聴いて思ふ

bach_goldberg_yuji_takahashi_1976664ことばやイメージや概念、
あるいは記号から音楽をつくるのではなく、
音を楽器の上でつくりだす手のうごきからはじめるのは、
手袋から手をつくるのではなく、
手にあわせて手袋をつくるのとおなじことだ。
そこには作曲者も作品もなく、
思考や感情も、冷えたミルクの表面にできる薄膜、
流れるエネルギーの表面に漂う仮の凝結に過ぎない。
高橋悠治著「音の静寂 静寂の音」(平凡社)P239

人生のすべては実験だ。高橋悠治の見る目は実に客観的。そして、ある意味冷たい。
にもかかわらず、そこに僕は真実があるように思えてならない。だから面白い。
彼が30年近く後にどうして「ゴルトベルク変奏曲」を再録しようとしたのか、その理由はもちろん知らない。明らかに様相の変化する演奏に説得力はある。バッハの規則正しさを一層自由に奔放に解き明かしたのが新しい方の演奏であるとするなら、旧い方には若々しい、グレン・グールド以来の衝撃がある。緊張と弛緩が見事にコントロールされたその方法に通底する精神は30年を経ようが共通して変わりないように僕には思われる。
所詮人間の思考や志向はそうそう変わるものではないのである。

反復を省略し、30数分で駆け抜ける挑戦的な「ゴルトベルク変奏曲」は、速度に比して印象は重い。ひとつひとつの変奏が独自の表現を持ちながらも、きちんと計算され、一貫性があるその様は繰り返し聴くのに耐え得る普遍性を持つ。音楽の1回性とでもいうのか、現れては消え、消えては現れる音の一粒一粒が際立ち、アリア・ダ・カーポに至り、また即座に冒頭アリアに戻って聴きたくなる始末。何という麻薬性。

J.S.バッハ:
・ゴルトベルク変奏曲BWV988
・14のカノン~ゴルトベルク変奏曲・アリアの8つのバスにもとづくBWV1087
高橋悠治(ピアノ、シンセサイザー)(1976.10.19-20録音)

例えば、第18変奏は旧盤が45秒に対して新盤は53秒。ほとんど差がないタイミングだが、聴いた印象は明らかに旧い方が軽やかで、前進的。続く第19変奏への移行も心なしか旧盤の方がスムーズ。その意味では、新しい方には意志(あるいは意図)がはっきり見える。
何より興味深いのは短調で奏される第25変奏が、さらっと、不思議に明朗に聴こえるところ。その分第26変奏以降の「天使の歌」はそれ以前と完全に同化し、「ゴルトベルク変奏曲」そのものが天上の歌として認識されるよう。

しかしおそらく、そこには高橋悠治の思想は入るまい。
ただ、そこには合理があるだけなのだと思う。

音は生まれ、音は消え去る。同じ音は二度と生まれない。
一つの音があり、別な音がある、それだけだ。
一つの音が次の音に導くこともない。
一つの音は生まれたその場所で消える。
次の音は次の場所で生まれ、そこで消える。
それらを連続したものと感じているのは、
創造の衝動、心の軌跡、
一つの音を創り、それを完結することなく放棄して、
次の音に向かう欲望のメカニズムではないだろうか。
だが、現実には一つの音さえ創ることはできない。
手があり、楽器があり、意図があり、うごきがある。
それらの組み合わせが瞬間ごとに明滅する。
~同上書P253-254

荒川区民会館での録音からまる40年が経過しても、この「ゴルトベルク変奏曲」は決して色褪せない。この作品はこれくらいチャレンジングな方が良い。

 

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4 COMMENTS

雅之

>彼が30年近く後にどうして「ゴルトベルク変奏曲」を再録しようとしたのか、その理由はもちろん知らない。

おそらく、音楽家として本能的に、また「ゾーン」に入ってみたくなっちゃたんでしょうかねぇ(笑)。

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