
数年前、僕はグレン・グールドのモーツァルトとハイドンを聴いて、感じたことを率直に書いた。あの時感じた彼の演奏の印象はいまだに変わることはない。果たしてグールドは、ハイドンやモーツァルトについてどのように考えていたのか? 少しばかりヒントになるような言葉を見つけた。
私がモーツァルトを好きでないという言い方は間違いです。モーツァルトには非常に惹かれる面がいくつかあります。彼の音楽には大きな柱を中心に据えた引き締まった構造があり、私はそれに感服しているのです。それから、曲の終結部の構造には類い稀なるものがあります。しかしモーツァルトに欠けていると思うのは―例えばハイドンには備わっているものなのですが―内声部の活発な動きを保つ場面での変化や対照の感覚です。モーツァルトは細部のすべてを活性化させるわけではありません。彼は必要以上に投入し、それでいて、あるものすべてを用いはしない。でもハイドンはすべてを用います。
インタヴュー4「引退願望、作曲家への道」(1962年)
~グレン・グールド、ジョン・P.L.ロバーツ/宮澤淳一訳「グレン・グールド発言集」(みすず書房)P202
別のインタビューでは、グールドはモーツァルトをシラミ扱いしていたが、どうやらそれは間違いだと気づいたらしい(?)。モーツァルトから湧き出る楽想は多彩であり、またあまりに大量だったということだ。それゆえに選択する必要があった。その意味で、モーツァルトは、最小の音符でいかに天衣無縫に駆けるかを志向した引き算の天才だったのかもしれない。一方のハイドンは、湧き出るすべてを生かす天才だったと解釈できる。
伝統や慣習の束縛を、彼はいともやすやすと乗り越えてしまう。しかしそれが音楽の本質から外れてしまうものであるならば、われわれが彼から受ける感銘は稀薄なものとなるだろうし、真の天才として尊敬することもないだろう。グールドは、常人とはまったく別の道をたどりながら、作品の本質を決して外さぬ、ぴいんと突き抜けた音楽を作る。オリンポス山には、どうやら、グールドだけが素早く登れる抜け道が、隠されているらしい。
(礒山雅)
礒山さんの評は、多少余所行きの、作り込んだ、高尚な印象を受けるが、言いたいことは概ねわかる。相変わらず鼻歌交りでハイドンのソナタを心地良く奏するグレン・グールドの業。これぞ文字通り「破・常識」。泉の如く湧き出る可憐な旋律を、グールド独自の方法で(ポリフォニーを意識して)激しい打鍵を伴い表現する様がとても音楽的で美しい。
例えば、13分近くに及ぶ第58番ハ長調第1楽章アンダンテ・コン・エスプレッシオーネの憂愁と、めくるめく第2楽章プレストの軽やかさとスピード感の対比はグールドならでは。そして、有名な第59番変ホ長調の第1楽章アレグロの、いかにもグールドらしい溌剌な(しかし色気のない)奏法は、ハイドンの腸を抉るようで、直接的な響きが素晴らしい。あるいは、第2楽章アダージョ・エ・カンタービレの、あまりに無情な表情は(機械的なといっても過言でない)、グールドの言うハイドンの変化や対照を見事に実践したものだ。また、終楽章テンポ・ディ・メヌエットは、何て喜ばしいのだろう。
最後のソナタが美しい。第1楽章アレグロの音調の変転の、いかにもグールドらしい静けさ(?)、そして、第2楽章アダージョの、内省するハイドンの顕現のような慈愛に溢れる音!!続く、終楽章プレストの驚異(大いなる喜び)!!!
おそらくハイドンの謙虚さの秘密は、どんな境遇でも控えめで、満足したことにある。後日幸運が巡ってくるはるか以前、友人に向かってこう述べたことがある。「古ぼけたピアノの前に腰をおろした途端、どんな王様に対しても、その幸福をうらやむことはない」。
~パトリック・カヴァノー著/吉田幸弘訳「大作曲家の信仰と音楽」(教文館)P46
ハイドンは、何よりピアノの前に腰を下ろし、静かに音を鳴らす瞬間が最も幸せだった。グレン・グールド然り。
おじゃまします。このCDを聴いて、ハイドンのピアノ曲が美しく、デリケートでロマンチックであることをびっくりしました。子供の頃、ピアノの練習曲の中にあったハイドンのピアノソナタ(ソナチネ?)は、モーツアルトやベートーヴェンのと違って、善良であまり垢ぬけのしない印象でしたが、このCDで初めて聴く曲は魅力的で、思わず楽譜を買ってしまいました。やはりグールドの力によるのでしょうか。ポゴレリッチもハイドンを録音していますね。
以前、グールドが「モーツアルトは長く生き過ぎた」と言ったということを読み、神に愛されしモーツアルトに向かってその言葉は!!?と絶句したことがありますが、モーツアルトの作曲姿勢についての言葉は知りませんでした。グールドは自身も作曲をしただけに、曲の構造がよくわかるのですね。
礒山さんというかたの「グールドは、常人とはまったく別の道をたどりながら、作品の本質を決して外さぬ、ぴいんと突き抜けた音楽を作る。オリンポス山には、どうやら、グールドだけが素早く登れる抜け道が、隠されているらしい。」のお言葉は、膝を打つほどよくわかります。でもことベートーヴェンの「悲愴」「月光」「熱情」に関しては、(傲慢かましてもいいでしょうか。)とても本質を外していないとは思えなく、あのメトロノームのような弾き方では、(グールドの実験的意図によるものかもしれませんが)ベートーヴェンの魂を表現することはできないのでは?と思うこのごろです。グールドはベートーヴェンのソナタ全曲を録音する予定だったとのことなので、晩年のグールドの演奏は変わっていたかもしれないのですが・・・
>桜成 裕子 様
こんばんは。
グールドの録音は、モーツァルトにせよベートーヴェンにせよ、グールドだから許された演奏でしょうね。
好き嫌い、是非、聴く人の感性によって様々だと思います。
僕自身も個性的で面白いなとは思いつつも、繰り返し聴こうとは思いません。
https://classic.opus-3.net/blog/?p=24532
ちなみに、晩年にも彼はベートーヴェンを演奏していますが、解釈の基本線は変わりません。
https://classic.opus-3.net/blog/?p=27533
ところで、ポゴレリッチのハイドンは素晴らしいですよ。
一聴をお勧めします。
岡本 浩和 様
「ベートーヴェンの音楽がグールドの方法を完全に受容していること。楽聖の方法が普遍的であったことを証明する好い例」との考察、感銘を受けました。私が、自分の中にできあがってしまった楽聖のイメージから抜けられず、その中からでしか演奏を受容できないのは、まさに「自分の内側にあるものでしか他者を見ることはできない。すべては自分の鏡なのである。」の例ですね。改めて岡本様の懐の深さを思い知りました。
ポゴレリッチはベートーヴェンの32番、バッハのイギリス組曲、モーツアルト、ハイドンと、グールドの足跡を辿るような録音をしていますね。印象は違いますが、グールドに憧れていたのでしょうか。ポゴレリッチのハイドンを聴いてみたいと思います。ありがとうございました。
>桜成 裕子 様
ポゴレリッチはグールドに憧れていたというより、グールドを意識していたというようなことはよく言われますよね。
実際、個性という意味ではグールド以上に個性的かもしれません(もしグールドがコンサート・ドロップ宣言をしなかったらポゴレリッチのような演奏を聴取の前でやってくれたかもしれませんね)。