亡くなる少し前、宇野功芳さんがこんなことを言っておられた。
中には手練手管が得意な指揮者もいますが、そんなことは評価しません。音楽大学に在学中、近衛秀麿の指揮でよく歌ったのですが、彼はいろいろな「コツ」を知っていて、教えてくれました。でもそれは良くなかった。音楽は「コツ」ではないです。そればかりだと、小ぢんまりとしてきれいなだけの演奏になってしまう。
~宇野功芳/山之内正共著「『音楽』と『音』の匠が語る 目指せ!耳の達人」(音楽之友社)P187
往年の巨匠たちの演奏には、上手く聴かせようという作為はない。
言葉にならない威容に、僕はいつどんなときも畏怖の念を抱く。
晩年のクレンペラーの一連の録音、中でもハイドンの交響曲集は、いずれもが「交響曲の父」と称される作曲家の本領を正当に伝える名演奏であると断言する。
最晩年の「オックスフォード」交響曲にある寛容な、器の大きい解釈に、それでいて決して「木偶の棒」ではない慈しみと悲しみに畏怖の念を抱く。第1楽章序奏アダージョの深い思念から主部アレグロ・スピリトーソに移行する瞬間の閃きは、老巨匠の熟練の棒の成せる業。また、第2楽章アダージョの重厚でありながら、すべてを手放した、何もない(?)透明感にクレンペラーの行き着いた境地を僕は確認する。
典雅さと峻厳さの同居。特に、第104番「ロンドン」の第2楽章アンダンテに流れる、聖俗相合わさる音調の奇蹟。
朝比奈隆がクレンペラーのレコードを聴いて、彼の方法を研究していた理由がよくわかる。すべてが心に染み入る、まさに手練手管ではない、内から湧き出る自然体の大演奏にあらためて拍手喝采を送りたい。
その昔、僕はオットー・クレンペラーのレコードに憧れた。「レコード芸術」誌の付録のイヤーブックに掲載されるレコードから欲しいものにチェックをつけて、いつも夢見ていた。中でもクレンペラーのレコードは飛び切りで、たくさんチェックが付いた。あの頃の、とても小さな夢は今やほぼ叶えられている。